当然駿河にあって、徳川勢をきびしく押えていてくれるものと思った穴山梅雪が、敵に寝返ったということはもはや、武田家の礎石が足もとから崩れだしたということだった。 いや、木曾義昌が信長に通じたのも、北条氏政が徳川氏と結んだのもみなその現われだったのだが、勝頼はいままでそれに気づかなかったのだ・・・・ すでに戦意を失くしている武田家の諸将。それを冷静に見てとって、信長と家康の怒涛
のような攻撃が開始されてしまったのだ。 そうなると甲府のつつぢが崎の城は、これを迎え撃てる構えの城ではなかった。城というよりそれは敵などここに寄って来れるものではないという、祖父の自身の上に設計された居館にすぎない。 その城へ、出たいったと思うと、またあわただしく戻って来た勝頼を迎えて、小田原御前は眼を丸くした。 「まあ、こんなに早く、戦が済もうとは・・・・さ、上様がお越しになろうゆえ、おぐしをあげて下され。それからお香を部屋に焚きこめて」 御前はまだ、良人の置かれている位置がどのように危うくなっているかを知らなかった。 正午前から降り出した春雨の柔い音をたのしみながら鏡を立てさせ、自分でそっと紅皿の紅を唇につけた。 「戦など、このままなければよいのになあ」 おくしあげの侍女に笑いかけると、侍女の伊川は鏡の中でこくりとした。 甲府城の女たちは、ひとり御前だけでなく、攻められたことを知らずに育ったものが多かった。 戦はどこか外であるもの、そして戦えば必ず勝って還るものと、いつのころからか信じきっている。 御前の化粧が終わり、室内への香のかおりがただよい出すと、こんどは御前は、琴をはこばせ、酒盛の用意を命じていった。 「もう、いつお出
でなされてもよい、それにしてもお成りの遅いこと」 自分も愛し、愛されていると信じている若い御前には、良人の遅いのが怨めしかった。 「また誰彼と家臣たちが、つまらぬ事を、いつまでも申し上げているのであろう。なあ、みなの、お待ち申し上げているこころも汲まず」 待ちわびた御前が琴の前に坐って音締めをしらべだしたときであった。 取り次ぎも待たずに、太郎信勝が、真っ蒼な表情でつかつかと廊下を渡ってやって来た。 「御前!
お父上からの口上をお伝えいたしまする」 「上様からの・・・・何であろう」 「明、早朝、この城を立ちのき、新府の城に移りますゆえ、みなみな身の廻りのものを取り片付けて置きますように」 「え・・・・?」 はじめて御前は琴から手を離して信勝を仰いでいった。 「新府のお城は・・・・もう出来上がったのでござりまするか」 「まだ出来上がってはおりません。荒壁がついたばかりと聞きましたが、敵の進軍いよいよ急にて、ここにあっては危ないゆえ、新府の城をふせぐことと軍議一決いたしました。すぐ立ち退きのご用意下さるよう」 「敵・・・・敵というと、あの、戦に敗れたのであろうか」 小首を傾げて訊く御前の表情は、まだあどけない十七、八の姫の顔であった。
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