屍骸に先に手を触れたのは天方山城だった。彼は一礼して信康の首を胴から斬りはなつと、移送で小袖でつつんでいった。 遺骸には忠世がこれも納戸から小袖を持って来てかけていく・・・・ すべてが終わったような虚脱に近い感情と、これがきっかけで、凄まじい狂風が吹き出しそうな不安とが、三人の心をひとしく支配しだしていた。 忠世の子の、忠燐が駆けつけたのは、三人がまだ茫然と考え込んでからであった。 忠燐は、畳にこぼれ、襖にしぶいた血潮を見ると、 「しまった」 呻くように言って誰にともなく喰ってかかった。 「これでよいのか・・・・これで・・・・世間では老臣
どものうち、誰がいったい若殿に生命がけで諌言したかと噂している。その非を知って諌言せなんだらへつらい者であろう。そのへつらい者が若殿の首を討ってそれでよいのか・・・・」 「忠燐、控えよ」 忠世はたしなめはしたが、その声は弱かった。酒井忠次と二人、信長の誘いに乗り、安土で洩らした軽率な言葉が、いよいよ鮮やかに彼を苦しめだして来ているのだ。 「誰が介錯したのだ。なぜ、もう一度翻意をうながそうとしなかったのだ」 「忠燐どの、許してくれ、長く苦しめてはと、介錯したのはこの半蔵だ」 半蔵が坐りなおして忠燐の前へ両手をつくと、天方山城はあわててしれをさえぎった。 「いや、服部どのではない。服部どのが討てずに泣いてござるゆえ、この天方山城道綱が介錯した。忠燐どの、この道綱、ふっつり武士が嫌になった。この償
いに家も禄も捨ててお詫びつかまつる・・・・」 「なに家も禄も捨てて詫びすると・・・・」 「いかにも、この使者を引き受けたときから高野山
へ出家と覚悟して浜松を発って来た・・・・大久保どの、服部どの、若殿の菩提
をのう・・・・・」 山城がそこまで言ったとき、忠燐は何を耳にしたのか、つと立ち上がって次の間の襖をひらいた。 「おう、そちは於初ではないか。方々
、小姓の吉良の於初が追 い腹
してござる」 忠燐の切迫した声にみんな思わず立っていった。 忠燐はそっと燭台の丁子
をとって、 「そうか。そちは追い腹切ったか・・・・」 少年だけに、この出来事は、於初の神経では耐えられなかったのに違いない。そう思うと、はじめて信康の死までが、いちどに悲惨な波になって忠燐に襲いかかった。 「そうか・・・・そちは・・・・」 いつか、あとの三人もまた襖ぎわに坐ってしまっている。 於初のために合掌してよいのかどうか?それすらわからぬ面持ちだった。 「於初!
苦しいか。介錯して取らそうのう」 忠燐はそういったあとで、 「おぬしは仕合わせ者じゃ・・・・大好きな若殿のおそばへ一筋に駆けて行ける」 しみじみとそうつぶやいて、そっと太刀を取り直した。
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