〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/10 (水) 後 の 月 (八)

屍骸に先に手を触れたのは天方山城だった。彼は一礼して信康の首を胴から斬りはなつと、移送で小袖でつつんでいった。
遺骸には忠世がこれも納戸から小袖を持って来てかけていく・・・・
すべてが終わったような虚脱に近い感情と、これがきっかけで、凄まじい狂風が吹き出しそうな不安とが、三人の心をひとしく支配しだしていた。
忠世の子の、忠燐が駆けつけたのは、三人がまだ茫然と考え込んでからであった。
忠燐は、畳にこぼれ、襖にしぶいた血潮を見ると、
「しまった」
呻くように言って誰にともなく喰ってかかった。
「これでよいのか・・・・これで・・・・世間では老臣おとな どものうち、誰がいったい若殿に生命がけで諌言したかと噂している。その非を知って諌言せなんだらへつらい者であろう。そのへつらい者が若殿の首を討ってそれでよいのか・・・・」
「忠燐、控えよ」
忠世はたしなめはしたが、その声は弱かった。酒井忠次と二人、信長の誘いに乗り、安土で洩らした軽率な言葉が、いよいよ鮮やかに彼を苦しめだして来ているのだ。
「誰が介錯したのだ。なぜ、もう一度翻意をうながそうとしなかったのだ」
「忠燐どの、許してくれ、長く苦しめてはと、介錯したのはこの半蔵だ」
半蔵が坐りなおして忠燐の前へ両手をつくと、天方山城はあわててしれをさえぎった。
「いや、服部どのではない。服部どのが討てずに泣いてござるゆえ、この天方山城道綱が介錯した。忠燐どの、この道綱、ふっつり武士が嫌になった。このつぐな いに家も禄も捨ててお詫びつかまつる・・・・」
「なに家も禄も捨てて詫びすると・・・・」
「いかにも、この使者を引き受けたときから高野山こうやさん へ出家と覚悟して浜松を発って来た・・・・大久保どの、服部どの、若殿の菩提ぼだい をのう・・・・・」
山城がそこまで言ったとき、忠燐は何を耳にしたのか、つと立ち上がって次の間の襖をひらいた。
「おう、そちは於初ではないか。方々かたがた 、小姓の吉良の於初がばら してござる」
忠燐の切迫した声にみんな思わず立っていった。
忠燐はそっと燭台の丁子ちょうじ をとって、
「そうか。そちは追い腹切ったか・・・・」
少年だけに、この出来事は、於初の神経では耐えられなかったのに違いない。そう思うと、はじめて信康の死までが、いちどに悲惨な波になって忠燐に襲いかかった。
「そうか・・・・そちは・・・・」
いつか、あとの三人もまた襖ぎわに坐ってしまっている。
於初のために合掌してよいのかどうか?それすらわからぬ面持ちだった。
「於初! 苦しいか。介錯して取らそうのう」
忠燐はそういったあとで、
「おぬしは仕合わせ者じゃ・・・・大好きな若殿のおそばへ一筋に駆けて行ける」
しみじみとそうつぶやいて、そっと太刀を取り直した。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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