〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/10 (水) 後 の 月 (七)

冷たく光った焼刃の肌に、燭台の灯の赤い映りが温かかった。
首の座をと言われた忠世をはじめ、半蔵も、山城も息をひそめて動かない。
何か取り返しのつかない大きな失策の輪が、いまや、あらが いかねる力にぎりぎりと絞られてゆきつつある・・・・そんな不安に、誰も彼も射すくめられていた。
信康はそうした静寂の底で、もう一度こおろぎの音をたしかめた。
すでに他界しているという母を想い、妻と子と父の顔を、点検するように描き直した。
「よし、改めて用意もいるまい」
「・・・・」
「半蔵」
「は、はいッ」
「お父上にな、これだけもう一度申し上げておいて貰おうかの」
「は・・・・」
「この信康、天地神明に誓って、一点のやましさもないと」
「若殿!」
「いや、それも今さら言うには当たらぬことかも知れぬ・・・・お父上はこの信康の潔白をよく知っておられるはずじゃ。そうじゃ。それは言うな半蔵、ただのう、信康は潔く腹切ったと、それだけでよい。怨みも残さず、涙も見せず、平静に死んでいったと、それだけでよい」
「若殿!」
「では頼んだぞ」
信康はそれだけ言うと、脇差の切っさき 四、五寸のところに小袖の袖をまいてつかんだ。
「二十一年の生涯だった。あれを苦しめ、これを苦しめた。しかし、その悔いも今はない。月はますます明るいようじゃ。忠世、世話になったの。忠燐によろしく伝えてくれ。さらばじゃ」
ぐっと左腹へ切っ尖を突き立てる気配を耳にして、
「若殿!」
(すべては終わった!)
半蔵は血走った眼をあげた。と同時に、この薄幸な若い主君を、長く苦しめまいとする武人の本能がとっさに太刀をとらせて、うしろへ廻らせていた。
「若殿! 服部半蔵、仰せによってご介錯、ごめん!」
「う・・・・」
さっと血潮がふすま にしぶいて、わずかに咽喉の薄皮を残し、だらりと首は前へ垂れ、さらに剛体がその上に折り重なって倒れていった。
障子に映った月の光が、だんだん黒を多くしてゆき、下段に一線、かっきりと白く残っている。
座敷の中は、血の香にくすんだ暗さに見えた。
半蔵は血刀を下げたまま痴呆のように立っていたし、天方山城は、両膝に手をおいて真四角に坐ったまま化石してしまっている。
忠世はと見ると、これはいぜんこっちに背を向けて、はげしく肩を震わしていた。
服部半蔵が、とつぜん奇声をあげて、燭台を一本斬り放ったのは、それからしばらくしてからだった。
彼は、切り飛んだろうそくの火を狂ったように踏みにじり、その場へ刀を投げ出して大声をあげて泣き出した。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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