冷たく光った焼刃の肌に、燭台の灯の赤い映りが温かかった。 首の座をと言われた忠世をはじめ、半蔵も、山城も息をひそめて動かない。 何か取り返しのつかない大きな失策の輪が、いまや、抗
いかねる力にぎりぎりと絞られてゆきつつある・・・・そんな不安に、誰も彼も射すくめられていた。 信康はそうした静寂の底で、もう一度こおろぎの音をたしかめた。 すでに他界しているという母を想い、妻と子と父の顔を、点検するように描き直した。 「よし、改めて用意もいるまい」 「・・・・」 「半蔵」 「は、はいッ」 「お父上にな、これだけもう一度申し上げておいて貰おうかの」 「は・・・・」 「この信康、天地神明に誓って、一点のやましさもないと」 「若殿!」 「いや、それも今さら言うには当たらぬことかも知れぬ・・・・お父上はこの信康の潔白をよく知っておられるはずじゃ。そうじゃ。それは言うな半蔵、ただのう、信康は潔く腹切ったと、それだけでよい。怨みも残さず、涙も見せず、平静に死んでいったと、それだけでよい」 「若殿!」 「では頼んだぞ」 信康はそれだけ言うと、脇差の切っ尖
四、五寸のところに小袖の袖をまいてつかんだ。 「二十一年の生涯だった。あれを苦しめ、これを苦しめた。しかし、その悔いも今はない。月はますます明るいようじゃ。忠世、世話になったの。忠燐によろしく伝えてくれ。さらばじゃ」 ぐっと左腹へ切っ尖を突き立てる気配を耳にして、 「若殿!」 (すべては終わった!) 半蔵は血走った眼をあげた。と同時に、この薄幸な若い主君を、長く苦しめまいとする武人の本能がとっさに太刀をとらせて、うしろへ廻らせていた。 「若殿!
服部半蔵、仰せによってご介錯、ごめん!」 「う・・・・」 さっと血潮が襖
にしぶいて、わずかに咽喉の薄皮を残し、だらりと首は前へ垂れ、さらに剛体がその上に折り重なって倒れていった。 障子に映った月の光が、だんだん黒を多くしてゆき、下段に一線、かっきりと白く残っている。 座敷の中は、血の香にくすんだ暗さに見えた。 半蔵は血刀を下げたまま痴呆のように立っていたし、天方山城は、両膝に手をおいて真四角に坐ったまま化石してしまっている。 忠世はと見ると、これはいぜんこっちに背を向けて、はげしく肩を震わしていた。 服部半蔵が、とつぜん奇声をあげて、燭台を一本斬り放ったのは、それからしばらくしてからだった。 彼は、切り飛んだろうそくの火を狂ったように踏みにじり、その場へ刀を投げ出して大声をあげて泣き出した。
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