〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/10 (水) 後 の 月 (六)

半蔵はぎくりと肩を波打たして天方山城を見合った。
彼が命じられてきているのは、信康の想像どおり介錯の役であった。
家康はそれを半蔵に命じるとき、床払いをした居間で、机の寄って、何かしたた めていた。
「── 半蔵、ほかでもないがの、その方二俣へ参って、三郎が介錯をしてやってくれ、また安土から督促とくそく が参ったわ」
一度移した視線をちらりと窓外へそらしながら、後の始末が何かと気になってならぬと見える」
半蔵は、気が動転していて、
「── 大殿、その儀は・・・・」
なにとぞ余人にと言おうとして、続けさまに頭を下げた。
「── 半蔵」
「── はいっ」
「── 実はの、この役、渋河しぶかわ 四郎しろう 右衛門えもん に申し付けたるところ、四郎右衛門め、三代相恩の主君にあれる刃は持たぬ・・・・そう言って昨夜逃亡してしもうた。律儀りちぎ な、しかし気の小さい奴での。よいか、それゆえ、その方は二俣におもむき、忠世とよく相談を遂げたうえでの、手抜かりないよう、充分に覚悟して取り計らって来るように」
そう言ってから、またチラリと半蔵を見やって、
「── 検視には天方山城をつけてやろう」
それでも半蔵は、誰かほかにお命じ下さるようにと辞退した。すると家康はいささかムッとしたように、
「── それほどこの使いがいやか」
と、押してくる。やむなく引き受けて来たものの、こうして、信康の方から先に介錯せよと出られると、顔もあげ得ぬ始末だった。
「どうだ。介錯してくれるであろうの」
「は・・・・はいっ、しかし・・・・」
「しかし、どうかしたと申すのか」
「く・・・・く・・・・口惜しゅう存知まする。このような仕儀になって」
信康はそれには答えず、
「忠世、もはや元康が心はうごかぬ。首の座の用意あるよう」
忠世はいぜんとして背をむけたまま、低い声で、
「はっ」 と答えたが動かなかった。
半蔵はこの時になって急に不安を覚えだした。
(これは、切腹させては、ならぬのではあるまいか?)
家康は、彼が信康の首を斬り得ないと知り、わざと渋河四郎右衛門の逃亡を話して聞かせたような気もする。
(── 三代相恩の主君の首に当てる刃は・・・・)
「若殿!」 と叫んで、半蔵は急に忠世に向き直った。
「若殿に・・・・若殿に・・・・この場・・・・ほかに何ぞおすすめすることが、あるのでは・・・・」
「ない!」 と、信康はきびしく言い、もうしずかに諸肌ぬぎかけている。
心の決まったときに・・・・と、考えて、下着はすでに白かったが、それは死装束しにしょうぞく にふさわしい純白ではなかった。
「さ、よいのう、あまりおれを苦しめずに、よいか。天方山城は検屍してゆけ」
信康はそう言うと、何のためらいもなく脇差を抜いて、そっとそれを燭台の火にかざした。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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