月の冴えと共に、いよいよ心にしみるこおろぎの声のたかまりだった。 信康は静に袷
の胸をくつろげ、ふと松の枝にくびれて死んでいったあやめの顔を思い出していた。 あやめの顔は幼い二人の姫に変わり、さらに妻の徳姫に変わった。 「お父上・・・・」
と、信康の唇は小さく動いた。 「二人の使者は、この信康に会うを怖れているに違いござうませぬ。三郎が最後のいたわり、彼らを苦しめずに逝
きましょう。笑っております。この三郎は・・・・」 そう言ったとき、廊下を遠く渡って来る足音が耳に入った。 夕べの膳が来たのか、それとも浜松からの使者が意を決してやって来るのか? (足音は三人・・・・)
と、感じると、信康は急いで襟元をを合わせていった。 意を決してやって来たとなれば、父からの使者に会うべきだった。会って述ぶべきことを述べ、その上で従容
と切腹するのが、自分の生命への礼儀でもあろう。 「申し上げまする」 足音が次の間にとまると、大久保忠世の声であった。 「浜松より、服部半蔵、天方山城の両人が見えましたれば、ご案内つかまつってござりまする」 「そうか、よく来た。入るがよい」 がたりと音をたてて襖が開き、 「さ、両人、入られよ」 二人を通すと忠世は小姓たちに手を振った。 「その方たちはお台所へ参って食事をいたせ」 服部半蔵と天方山城は、燭台の灯の向うに信康の平静な顔をみとめ、あわてて一度平伏した。 「服部半蔵にござりまする」 「天方山城、主命によって参上いたしました」 「おお、よく来られた。お父上は病臥中とうけたまわったが、その後のご様子は」 「はいッ、もはや、お床払いをなされ、一昨日の朝からまたいつものように冷水を浴びだしてござりまする。ところで、このたび、われら両人が参りましたは・・・・」 服部半蔵が急き込んで、一気に何か言おうとするのを信康は軽くおさえた。 「急ぐな半蔵、まだたずねたい事がある」 「はッ」 天方山城は、半蔵のわきでじっと畳に両手をついていたし、大久保忠世は、一人背を向け次の間の敷居ぎわに黙然と腕を組んで坐っている。 その忠世の姿が、信康には気になった。見方によれば近づく者を警戒しているようでもあり、また、いちめんでは、これからこの座敷で何ごとが起こるかを知っていて、それに備えているようにも取れた。 服部半蔵は鬼半蔵の異名で聞こえた男、天方山城は、これも豪胆
で鳴っていた。 (あるいは半蔵、山城の両人、信康が万一切腹を聞き入れないときには、一刀のもとに斬るように命じられて来ているのではあるまいか) そう思うと信康は、自分でも不思議なほどに肚の底から落ち着けた。 「母上も去る二十九日にご自害とうけたまわったが、事実であろうの」 「はい、仰せのとおりでござりまする」 「そうか、ではのう半蔵、この信康も切腹するゆえ、来合わせたついでにその方に介錯を頼むとしようか」
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