「浜松から、服部
半蔵 正成
どの、天方 山城守道綱
どの・・・・」 忠隣はおしころした声で言ってから、 「お願いでござえいまする」 ほとぼしるように頭を下げた。 「大殿の胸中は、二人の言葉からも察せられまする。この忠隣の眼に狂いはないと存じますれば、なにとぞ思い直されて・・・・」 逃亡してくれと口には出せず、またしてもじっと見上げてくる忠隣だった。 信康はその視線の強さに押されまいとして、 「ハハハ・・・・」
と声を立てて笑った。 「そうか、浜松からやって来た派h半蔵と山城か。では、さっそく両人に会うとしよう。忠隣、聞いたとあらば重ねて申すな。この信康、こんどは強いぞ」 「強いばかりが武将の面目ではござりませぬ。先ほど若殿は何と仰せられました。大殿には思うことを口にせぬ一面があると・・・・それはあながち、大殿ばかりではござりませぬ。思うことの、思うままに口に出る時節がいつ来るか、若殿!
お願いにござりまする・・・・」 信康はぴしりと障子を閉めて、 「重ねて申すな。よいか、浜松の使者をこれへ通せ」 そのくせ、そばに於初がいるのも忘れて、よろよろとよろめくように坐っていった。 今は逞しい忠燐の意志が憎い。 忠燐のいうとおりに逃亡し、もし、この二俣城を遁
がれ出てから、名もない武田方の雑兵の手にかかったら何とするのだ。その怖れがあればこそ、息子の忠燐はたびたび忍んで来ては逃亡をすすめるが、父の忠世はやって来ない。いや、忠世がやって来てすすめるほどならば、父もはっきりと逃げよと口に出す・・・・みなが思うことを口に出せない事の裏には、誰にも計算できない将来の危険が感じられるからに違いなかった。 「若殿!」 まだ忠燐はあきらめきれないらしい。 「若殿!
いまいちど縁までお顔を・・・・」 信康は答えなかった。 忠燐の執拗なねばりは、かえって浜松からの使者の口上
が、ぬきさしならないものになって来ていることの証拠に思えた。 「若殿!」 いつか小姓の数は三人になって、六つの目が不安そうに信康を見つめていた。 「よいのじゃ。返事はするな」 その六つの目に・・・・と、いうよりも、やはり自分自身に向かってつぶやく信康だった。 「ここで心を動かしては、この信康、末代まで未練、未熟の名を取ろうぞ」 「帰ったようすでござりまする」 しばらくして於初が小さな声でささやいた。三人の小姓がそろって外へ耳をこらす顔になっている。 そう言えば、障子の腰を白くくぎった月光の底から、こおろぎの声がすき通ってきこえだしていた。 「於初、その方たちは、さがっておれ」 「はい・・・・しかし、なぜおそばにいては・・・・」 「浜松からの使者に会うのだ。案ずるな。そのような眼をして」 「はい」 三人が出て行くと信康はそっと脇差を鞘
ごと腰から抜き取って、静に瞼をあわせていった。 |