〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/10 (水) 後 の 月 (四)

「浜松から、服部はっとり 半蔵はんぞう 正成まさなり どの、天方あまがた 山城守道綱みちつな どの・・・・」
忠隣はおしころした声で言ってから、
「お願いでござえいまする」
ほとぼしるように頭を下げた。
「大殿の胸中は、二人の言葉からも察せられまする。この忠隣の眼に狂いはないと存じますれば、なにとぞ思い直されて・・・・」
逃亡してくれと口には出せず、またしてもじっと見上げてくる忠隣だった。
信康はその視線の強さに押されまいとして、
「ハハハ・・・・」 と声を立てて笑った。
「そうか、浜松からやって来た派h半蔵と山城か。では、さっそく両人に会うとしよう。忠隣、聞いたとあらば重ねて申すな。この信康、こんどは強いぞ」
「強いばかりが武将の面目ではござりませぬ。先ほど若殿は何と仰せられました。大殿には思うことを口にせぬ一面があると・・・・それはあながち、大殿ばかりではござりませぬ。思うことの、思うままに口に出る時節がいつ来るか、若殿! お願いにござりまする・・・・」
信康はぴしりと障子を閉めて、
「重ねて申すな。よいか、浜松の使者をこれへ通せ」
そのくせ、そばに於初がいるのも忘れて、よろよろとよろめくように坐っていった。
今は逞しい忠燐の意志が憎い。
忠燐のいうとおりに逃亡し、もし、この二俣城を がれ出てから、名もない武田方の雑兵の手にかかったら何とするのだ。その怖れがあればこそ、息子の忠燐はたびたび忍んで来ては逃亡をすすめるが、父の忠世はやって来ない。いや、忠世がやって来てすすめるほどならば、父もはっきりと逃げよと口に出す・・・・みなが思うことを口に出せない事の裏には、誰にも計算できない将来の危険が感じられるからに違いなかった。
「若殿!」
まだ忠燐はあきらめきれないらしい。
「若殿! いまいちど縁までお顔を・・・・」
信康は答えなかった。
忠燐の執拗なねばりは、かえって浜松からの使者の口上こうじょう が、ぬきさしならないものになって来ていることの証拠に思えた。
「若殿!」
いつか小姓の数は三人になって、六つの目が不安そうに信康を見つめていた。
「よいのじゃ。返事はするな」
その六つの目に・・・・と、いうよりも、やはり自分自身に向かってつぶやく信康だった。
「ここで心を動かしては、この信康、末代まで未練、未熟の名を取ろうぞ」
「帰ったようすでござりまする」
しばらくして於初が小さな声でささやいた。三人の小姓がそろって外へ耳をこらす顔になっている。
そう言えば、障子の腰を白くくぎった月光の底から、こおろぎの声がすき通ってきこえだしていた。
「於初、その方たちは、さがっておれ」
「はい・・・・しかし、なぜおそばにいては・・・・」
「浜松からの使者に会うのだ。案ずるな。そのような眼をして」
「はい」
三人が出て行くと信康はそっと脇差をさや ごと腰から抜き取って、静に瞼をあわせていった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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