〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/09 (火) 後 の 月 (三)

「のう於初、信康とて、この城を逃亡すれば生き残れると思わぬでもない。忠隣はそれを・・・・」
と、言いかけて、信康はひどくあわてた。自分に逃亡をすすめた、洩らしてはならぬ人の名を、思わず口にしてしまったのだ。
「いや、その・・・・逃亡をすすめた者は・・・・いま死ぬは犬死いぬじに と申すのだ。生き残って後に備える事こそ孝、ともおれに言った・・・・が、おれにはそうは考えられぬ。ここを逃亡すれば行く手は敵地、いやでも一度は勝頼に会わねばならぬ。勝頼に会うたら安土の舅が抱いた疑念は、事実ではなかったと、後日に何の証拠も残せぬ・・・・わかるか於初」
いつか於初は両手の拳を膝に立てて泣いていた。
彼もまた、心のどこかに、信康を逃亡させたいと考えていたことに気づいたのだ。
そのためには、父家康への反感をあお らなければと、そんな意識もあったらしい。
「それゆえなあ於初、この信康に、両親のことを言うでないぞ。信康はの、いまにして信康の信じた道を、しっかり歩もうと心に思いさだめたのだ。逃亡して大久保親子に累を及ぼし、父を疑わせ、わが身の潔白を曖昧あいまい にするは愚かなことと気づいたのじゃ」
「若殿! お許しなされて下さりませ。私は愚痴にござりました」
「それそれ、だんだん月が澄んで来たぞ。涙を拭いて、大きな自然を見るがよい」
「はい・・・・」
「信康は仕合せだった・・・・母の御前にも愛され、お父上にもわずろ うまで愛された・・・・いや、それでは言葉が過ぎようかのぬ。この信康は不孝者だったと」言い直そう。母の御前を自害させ、父を病の床に伏さす・・・・それゆえ、せめて最期だけは正しく強くなけらばならぬ」
「と、仰せられると、やはり近くご自害を・・・・」
「いや、死ぬのではない!」
と、信康は強くかぶりを振ってみせた。
「今までの信康の生は、生ではなかった。世間のなみ にもてあそばれて、おのれを見失うた虚妄きょもう の影にすぎなかった。が、これからはおのれ自身の意志を貫くのじゃ。正しくおれが考えどおりに生きるのじゃ」
言っているうちに、信康はだんだん自分の死が、一筋の険しい渓間たにま に、決定してゆくのを感じた。
(おれはどうやら死ぬ気になったらしい・・・・)
と、そこへ二人の小姓が、燭台をささげて入って来た。
「ただいま、お膳を運びますが、その前に雨戸を・・・・」
「よかろう。月も眺めた、閉めるがよい」
そう言ってから、ふと高縁の下に動く人影に気づいていった。
「誰だ。そこにいるのは誰だ?」
「はい、忠隣にござりまする」
「忠隣、おぬし、そこで聞いていたな」
「はい、浜松から、ご使者が見えましたゆえ、それをお告げに参上し、思わず・・・・」
忠隣は、月光の中へ小さく坐って、きっと信康を見上げてくる・・・・
信康はその眼に宿るはげしい虹を感じとり、
「浜松から、誰が来たのじゃ」
必要以上に落ち着いた、しずかな声で訊ねていった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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