於初は、信康の足もとにきてすわった。 なるほど暮れおちた紫紺の空に、本宮山
の山容をくっきりと浮き上がらせて、十四日の月が出かかっている。その稜線の下の近景はすべてが胸いっぱいの不満を蔵して沈黙している黒に見えた。 「若殿・・・・私はこの世が、これほど不快なものとは存じませんでした・・・・」 於初は信康にというよりも、自分に話しかける口調で、語尾に感傷をちりばめた。 「われわれは足利将軍の一族にござりまする。それはすでに滅び去るものと、運命にまで見放された一族の・・・・その末に、いったい、何を味わわせようとて生まれさせたのか?私は、ここへ来てから、いつもそれを考えさせられておりまする」 信康はいぜん小姓に背をむけたまま、 「於初、お父上はな・・・・心痛のあまりご病気になられたそうじゃ」 「えっ、そのようなことを、誰がお耳に入れました」 「おれのもとへも時おりやって来る者はある。その者の名は言うまい。その者はの、わしにここから逃亡せよとすすめるのじゃ。お父上はたしかにそれを望んでいるとも言う・・・・それゆえ、名は洩らせぬが。お父上は、たしかにそうした一面のおわす方じゃ」 於初は信じられぬという風に頭を振った。 「大殿にそのような心があられたら、なぜ、母の御前のご自害も、おとどめなされませぬ。私はそうは思いませぬ」 「ほう、ではそちは何と思うぞ」 「大殿の一徹さが、母の御前の死諌
を誘う結果になったと・・・・」 「ハハ・・・・いかにもそちらしい」 信康は軽く笑ってさえぎった。 「あれは一昨年
であったかの。お父上が、この信康や母の御前をはばかって、お万の産んだ於義丸と親子の名乗りをせなんだのは・・・・」 「そのようなことがござりましたか」 「あった。それゆえ、おれはわざわざ人を遣
わして、於義丸を岡崎へ呼び寄せた・・・・そしてお父上の岡崎へ来られた折に、この三郎がたった一人の弟ゆえ、何も言わずに会うてやって下されと頼んだのじゃ」 「存じませぬ・・・・はじめてうかがいました」 「そのおりのお父上の顔、いまでもハッキリおれには見える。はじめは怒ったようにこの信康を見据えられ、やがて眼を赤くされて首を振られた。お父上は、この世のことは、秩序第一、和合第一と考えられ、時にきびしく私情を殺すくせがある。おれはまた強
って頼んだ。この信康の弟と、すでに名乗りを済ました者、お父上がお許しなくば、兄弟は、また離ればなれにならねばならぬ」。われら兄弟を哀れと思し召さば、何とぞ・・・・と。すると、あの父上が、いきなりおれが肩をつかんでお泣きんまされた。が、言葉はいぜんきびしかった。そちがそのように申すなら、と、於義丸を呼び入れられたが、膝には乗せず、たった一言、そちはよい兄を持ったぞと、仰せられただけであった・・・・わかるか於初、そのようなお父上ゆえ、こんどのことでは、病の床にも伏されるはず・・・・この信康は、母を殺し、父を苦しめて・・・・不幸な子であったぞ」 いつか月は山の稜線を離れて、主従の影をくっきり縁の端に描いていた。 |