家康は、ひたむきに嘆願する徳姫を見ているうちに、 (何ももはや言うことはなくなった・・・・)
そう思い、心の底から人間が哀れになった。 ここへやって来るまではわが子を誅
さねばならぬ父親の悲しみを軽率な嫁に思い知らせてやりたい感情もなくはなかったが、それは暁の霧のように消えていった。 (軽率なのは決して徳姫ひとりではなかった・・・・) 信康も自分も、築山御前も信長も、それが人間である限り、絶えず過誤と悔恨の間を切なく往復しあうものらしかった。 「舅御さま、お願いでござりまする。姫たちに免じて、何とぞ殿を・・・・」 家康は大きくうなずいて立ち上がった。 「こなたの心はよくわかった。が、のう姫、これはこのままに済まされぬわけあって、父のわしが涙を呑んで裁いたことと思うがよい、しかし・・・・」 と言いかけて、自分の弱さを叱りながら、 「人には、人それぞれの身って生まれた運がある。この運には何人も歯は立たぬ。三郎がもしわしの上越す幸運を持っていたら・・・・」 そこまで言って、家康は狼狽した。聞く相手によってはどのような誤解を招くかわからない言葉だったと気づいたのだ。 「とにかく、一筋に思いつめず、騒がずにのう。わしはすぐ西尾の城へ行かねばならぬが」 「徳姫は、その言葉の中から、何か救いを掴み取ろうとして喰い入るように家康を見つめている。家康はもう一度意味もなくうなずいてみせて、廊下へ出て行った。 「太郎左・・・・」 「はい」 「わしは、やはり徳姫に会ってよかった!
三郎は女房どもに嫌われておらなんだ」 「はい、御台所さまのお言葉に、われらも思わず落涙しました。噂とは違うようにござりまする」 「では、あとをよく頼んだぞ。手ぬかりなく」 こうして家康は雨の中を西尾城へ向かった。この城は家中の長老酒井雅楽助
正家 の居城であったが、そこから岡崎城と大浜とをきびしく注視して、事の処断に寸分の隙もなく備えてゆくつもりであった。 従う手勢は二百。それに鉄砲三十挺を加えて粛然
と西尾への街道を進んでゆくと、今さらのように六歳のときのむかしが哀れに思い出された。 そのときは輿に乗せられ、いつ帰るあてもない人質の旅立ちだった。その同じ路を今日は、わが子の処断を胸に秘めて通るのである。 (まず西尾の城を固めておいて、それから大浜の三郎に切腹を命じてゆく・・・・) 道の半ばをすすみ、両側に長槙
の生垣 が雨に煙って続いている。 「──
舅御さま・・・・」 すぐ近くで、また徳姫に呼びかけられたような気がして、家康は思わず手綱をしめて立ちどまった。 むろんそのあたりに徳姫のいようがずがなく、それは空しい幻聴だったが、その幻聴が、なぜか家康の胸で早鐘を打ちだした。 (嫁の姫でさえ、あのように悲しんでいる) もし大浜の囲みの一方をあけておいたら、誰か家臣が、信康をどこかへ連れ去ってはくれまいか・・・・? その連想を家康は心で恥じた。 (未練なッ!)
きびしく自分を叱りつけて、また馬をすすめだしたが、一度心に浮かんだ想像は執拗に彼の胸で明滅した。 |