「姫、こなたは右府が一の姫、決してこなたに誰も手もふれさせぬゆえ案ずることはない」 家康はつとめて不快な表情をさけ、おだやかに言い聞かせる口調であった。 「いずれ、右府から、こなたの身について、お話があろう、それまではこのまま城にいることじゃ」 「いいえ!」 と、徳姫は身をのり出した。 「噂によれば安土の父から、殿にあらぬ疑いがかかっている由
、殿の潔白は、わらわがいちばんよく知っておりまする。姫たちのため、すぐ安土へおもむいて申し開きいたしたく存じまする」 「なに、では三郎がために安土へ行くと言われるのか」 「はい、それが妻のつとめ・・・・と、すぐさっき気づきました。何とぞお許し賜りますよう」 「そうか三郎がために・・・・これはわしが悪かった。ちと合点
違いであった」 「舅御さま、殿は決して悪いお人ではござりませぬ。短気にお怒りなさることはあっても、曲がったことなど露ほどもいたしませぬ。それに姫たちには優しい父、わらわには天にも地にも代えがたい、たった一人の良人にござりまする」 家康の眼はだんだん大きく見開かれ、まわりが赤くなっていった。 「姫・・・・」 「はい」 「こなたは、なぜ、もう一、二年前に、その気になってくれなかったのじゃ」 「はい・・・・正直に申し上げます。殿をご追放なされたと聞き、はじめて殿が、わらわにとってどのようになくてはならぬお方であったか・・・・それに気づいてござりまする」 家康はサッと軍扇をひらいて顔をかくした。 徳姫の言葉には少しの飾りもないと分ると、人生の哀しい皮肉が、いよいよ切なく感情をゆすぶり立てる。 「お願いでござりまする。わらわを安土へやって下さりませ。生命にかけても、殿の潔白を立てて来とう存じまする」 「姫・・・・」 「はい。お許し下さりまするか」 「いいや、こなたはどのような噂を耳にしたか知らぬがの、こんどの事は右府の仰せではない。この家康が一存じゃ」 「えっ?
ではあの舅御さまの・・・・」 「そうじゃ。それゆえ安土へ行くには及ばぬ」 徳姫は一瞬、茫然として家康を見上げ、それから今度は狂ったように頭を下げた。 「それならばなおのこと、わらわに免じて、殿をお許し下さりませ。舅御さま、とのとおりでござりまする。殿が、舅御さまにご謀反など・・・・またきっと親子の間を割こうとする悪者どもの企みに違いござりませぬ。近ごろの殿は未明のご鍛錬から夜寝るまで、一分の隙もないご精励ぶり、妻のわらわが一番よく存じておりまする」 家康はたまりかねて、しばらく顔をそむけ、姫たちが居間に置き忘れていった手まりを見つめていた。 「舅御さま、まさか殿を特にお憎しみではござりますまい。殿は、舅御さまのお噂をせぬ日とてはござりませぬ。殿のご孝心に免じ・・・・いいえ、姫たちや、わらわを哀れと思し召し、何とぞ追放、お赦免下さりますよう、このとおりでござります。このとおりで・・・・」
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