〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/07 (日) 泣 き 獅 子 (一)

翌日は風は少し弱まったが、雨は依然としていんうつに降りつづいた。
気温も前日よりはいくぶん下がって、朝のうちは冷えさえ感じられた。
徳姫は夜が明けるとすぐに、奥を固めている警護頭の石川太郎左衛門を表への廊下へ訪ねて行った。
太郎左衛門は、自分も不寝番をやったとみえて、眼を赤くして渡り口のわきの納戸部屋にヤリを立てて控えていた。
「これは御台所さまでござりまするか、表へのお渡りならば、ご遠慮あるよう願わしゅう存知まする」
「太郎左、いったいこれは何としたのじゃ。だれぞこの城へ攻め寄せてでも参るというのか。殿はどうしておわすやら気にかかる」
「御台所さま。その若殿ならば、もうこの城にはおわしませぬ」
石川太郎左衛門もまた、こんどの事の起こりは徳姫の告げ口からと信じているので、答えはつい荒くなった。
「この城におわさぬとは・・・・浜松へでも火急のご用ができたと申すか」
「あさ・・・・御台所さまに、そこまでお聞かせしてよいとも悪いとも、この太郎左、お指図は受けておりませぬが・・・・」
「何といわるる。ゆうべからの城内の動き、何とのうただ事とは思えぬ。けさも人馬の音が・・・・」
と、いいかけて声をひそめて、
「まさか殿のお身に、何か変事があったのではあるまいのう」
太郎左はそういわれると、半ば反感、半ばはいぶかる視線で探るように徳姫を見ていった。
「すると御台所は、何もご存知ござりませぬか」
「と、いうは、ないかあった証拠ととれる。心にかかる。太郎左、聞かしてたもれ」
「これはしたり!」
太郎左はわざと大きくほおをふくらまし、
「われらはまた、若殿のお身に起こること、御台所さまはまずもってご存知のことと思うておりましたが」
「いいや知らぬ。殿は何も仰せなかった。気にかかる。何があったか気化してたもれ」
太郎左はもう一度むっつりと小首をかしげた。
徳姫の眼にみなぎってゆくろうばいと、急き込む姿にいつわ りは感じられない。
(ほんとうに知らないのであろうか・・・・?)
(いいや、そんなバカなことが・・・・)
「御台所さま、若殿はきのう、この城から追放され、牢人なされてござりまする」
「えっ!? 殿がこの城から追放されたと・・・・」
「はい、まず大浜に謹慎を命じられ、やがて切腹のごさたとなろうと・・・・それゆえ、ゆうべから、この太郎左まで、あとの騒動に備えて、似台所さまや姫君たちをご警護申し上げておりまする」
「太郎左! いったい殿は・・・・何のためにそのような」
「おん母君、築山御膳とともに武田方へ内応したお疑いでござりまする。だれが、またそのようなことを、安土へつべこべ申し送ったものか。安土の右府さまより生かしておくなとのお指図があったげにござりまする」
太郎左はついうっぷんをもらして、それから意地悪く徳姫の表情をぬすみ見た。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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