家康はぎくりとして庭の闇を見つめていった。庭石のしぶく雨の飛沫で、菅笠と百姓蓑で土下座している相手の姿を見出すまでにしばらくかかったが、その声が信康であることは刺されるように分っていた。 「あ・・・そちは!?」 家康は、信康が、若さに任せて反抗する場合はあるいはあるかも知れないと思っていた。しかし、こんなみじめな姿で、この豪雨の中を忍んで来るとは思いもよらなかった。 「そちは・・・・そちは、この父の、命を忘れたのか」 「お父上・・・・あのままのお別れでは、信康は死んでも死に切れませぬ。はい、親吉と、雅楽助
正家に計ろうて貰いました。両人をおとがめないように・・・・」 「ええ、作左めも同腹で通したな」 「いいえ、榊原小平太が、万一お叱りの節は責
めを負うと・・・・」 信康はまたまっ白な手を土にさらして肩をふるわして子供のように泣きじゃくった。 家康はあわてて雨すだれの向こうを見やり、それから居間のうちを振り返った。 そう言えばどこにもこの対面をうかがう者はなく、小姓たちまでが次へ下がって息を殺している。 ぐっと切なさが胸いっぱいになっていったが、 (負けてはならぬ!) と、おのれを叱った。 「お父上・・・・」
と、また信康は言った。 「お父上の苦しさ・・・・この三郎、あれこれと親吉に説かれてようやく分ってござりまする」 「小賢しいことを申すな。分った者が、そのような姿で忍んで来ると思うか」 「未練でござりまする。恥じまする。信康は武将の子、武将の面目はよく存じておりまする。が、しかし・・・・」 「が、しかし、何としたのだ。よいか三郎、武将本来の勤めはな、わが生命
をすてて、天子に仕えることにある・・・・とだけ申してもよく分るまい。天子に仕えるとは、天子が御宝
、すなわち民の生命を守ることじゃ。みなの生命を守るために、我が生命は捨てて惜しまぬ・・・・それが武将なのじゃ。それゆえ、祖父清康
も二十五で生命を捨てた。父広忠
も二十四歳で生命をおとした。この家康とて、理非を考え退けぬときには、いつでも潔
う屍 を戦野にさらす覚悟でいる。その子のそちが・・・・わが身の過ちも思わず、その未練、見苦しいと思わぬか」 「お父上!
それはあまりにもお情けない。この三郎こうして忍んで参りましたは、決して死をいとうての事ではござりませぬ。わが死が一門のためとならば喜んで死につきまする。が、ただ一つ・・・・」 いつか信康は夢中で洩れる灯の輪の中へ這いよっていた。笠はむしりとり、髪も、まつ毛も、頬も唇も濡れるに任せて、眸だけが青い焔を噴いて光っていた。 「ただ一つ、この三郎が、武田方に内応したなどと・・・・それだけはあまりにもむごい仰せ方・・・・それだけはお信じ下さいませ。不肖ではあれこの三郎・・・・お父上の子でござりまする。父にそむいた子と言われては、あの世で・・・・あの世で・・・・祖父にも、曽祖父にも合わす顔がござりませぬ」 家康はよろよろとよろめいて、居間の鴨居
であやうく自分を支えていった。声をあげて号泣したい激情が突風のように胸をたぎらせ血を鳴らした。 |