〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/07 (日) 追 放 (八)

人間が、一つの道を、どこまでも押し進もうとすることは、このようにつらく難儀なことであろうか。
(信康! この父も口惜しいのだ・・・・)
家康はそういってやりたかった。
信長が、天下のためにと、真正面から挑んで来たこんどのこと、こっちも後へ引けなくなったのだ・・・・と。
が、その思いを言葉にしては、この父の一分が立たぬと、そちには察しがつかぬのか・・・・
「お父上! お願いでござりまする。お父上だけはこの信康、二心はないと信じている・・・・たった一言! それだけ仰せ聞け下さりませ」
「・・・・」
「お父上! なぜ黙っていられまする。お父上もまた、まことこの信康が、勝頼に内応していたと思し召されまするか」
「・・・・」
「その疑いを受けたままで、祖父や曾祖父のもとへゆけとは・・・・あまりにもむごいとおぼされませぬか」
「たわけめっ!」
家康は眼をつむるかわりに、カーッと大きく信康をにらんでいった。
が二人の視線はどちらも相手に通ずる力はなく、むな しく虚空で火花を散らすばかりであった。
家康はたまりかねて、
「その・・・・その、たった一つの申し条、それが未練と気づかぬか。謹慎しろと命じられて、うぬはその我慢がまん もできぬやくたいなしかっ」
信康はぐっと片ひざ立てて、しばらく何も言わなかった。
「これほどまでに申し上げても」
「くどい。戻れっ」
風雨はまた横殴りに信康をあおった。
びんの毛がいちどに右のほおから左のほおにはりついて、絶望にきらめく眼が恨みを込めて燃えつづけた。
「武将というはな、命じられたまま、泰山たいざん が崩るるとも動かぬものじゃ。よいか。帰っても軽挙はならぬぞ。謹慎と申し渡されたら、あとの命が届くまで、ただきびしく謹慎するがまことの武将じゃ」
信康はしかし、それを聞いている様子はなかった。
彼はすーっと立ち上がると、そばにあった笠をじりりと裸足でふみにじった。
哀願がついに憤怒に変わったらしい・・・・と、思うと、またがっくりと首を垂れてすすり泣いた。
家康は依然として立ったままじっとわが子を見つめている。
「戻りまする。戻りまする・・・・」
小さく二言つぶやくと、肩を落としたまま信康は真っ黒な雨に中へ、よろめくように歩きだした。
歩きだしてすぐ庭石につまづいたのは、あしもとの暗さのせいばかりではなかった。
父だけは、自分の潔白を知っていてくれる ── そう信じ、それにすがってやってきた若者が、その夢も杖も砕かれてしまった絶望の姿であった。
信康は、白い素足の裏を見せてやがてすっぽりと暗に溶け、あとはただ激しい風のうなりと雨の音が残っていた。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ