岡崎城内はその夜更
けまで、人の動きであわただしかった。 三郎信康が大浜へ送り出されると、すぐに築山御殿の周囲へは出入り口のない竹矢来が組まれて番卒が配置され、つづいて若御台徳姫の身辺へは二十人ほどの警護がついた。 その間に、松平玄蕃
家清 と、鵜殿
八郎 康定
とが家康を訪ねて信康の命乞いをしていったが、家康は二人に二言とは言わせなかった。 「わが子を、父が処分するはよくよくのこと、いっさい口出しは相ならぬ」 そして、城内の処置が終わると、ただちに、岡崎を取りまく四方の小城の固めの手配にかかっていった。 それはさながら信康が、父のもとへ逆襲を試みようとしているかのような厳しさ。三の丸にあった家康の生母、於大
の方までが、眉をひそめ、小首をかしげるほどの用心深さであった。 ただ本多作左衛門には、そうした家康の心が悲しいまでによく分っていた。 家康はこれ以上に、一点の非も信長に打たれまいとして必死なのだ。 信長は婿舅の私情をはなれ、日本への新しい秩序をもたらすために泣いて信康の自決を迫って来たという態度を持っている以上、家康もまた、それに劣らぬ大所
、高所 からの処置が必要であった。 信長が天子の選んだ右大臣ならば、家康もまた天子の左近衛権少将。決して信長の私臣ではないという立場をはっきりさせるためには、万一の手配りにみじんの過ちも許せなかった。もしこのうえの騒動を招くことがあっては恥辱そのものとのきびしい自省からであった。 城内の配備が済むと家康は再び広間へ現れて、大浜、岡崎と小三角の一点をなす西尾の城へは、松平家忠を配し、同じく北端の城番は松平玄蕃と鵜殿八郎三郎に守備を命じた。 「よいか、決して何事もなかろうと、たかをくくっては相ならぬぞ。この城は作左に任すが、松平上野介康忠、榊原小平太康政の両人には、今宵から前後の城門の不寝番を命じておく」 雨は夜が更けるにつれて、だんだんはげしさを増して来た。 記録によると、この日から五日間降り続き出水の被害も相当だったとあるが、その雨の中で、人々はとにかく命じられてままに配備につき、あとに残った者は広間で、家康に誓書をとられた。 いかなる事があっても、信康とひそかに音信は交わさぬという内容のものだった。 その誓書を集めて、家康が再び居間に戻って来たのは、もう子
の刻 (十二時) をすぎていた。 まだ雨戸は締められてなくて、すだれを掛け並べたような雨と、だんだん加わって来た風音とが、汗ばんだ陰気さを庭から居間へひろげていた。 その雨の中へそのとき一つの人影があらわれた。菅笠
に、百姓蓑 を着て、全身をしぼるようにぬらした裸足
の男。 その男は、家康の居間からこぼれる灯を見ると、泉のわきの灯籠のかげからころがるように縁先ちかく寄って来て、 「お父上!」 叫ぶように一声言うと、そのまま庭先の地べたの上へ両手をついて泣きだした。 |