信康は不意に大声で笑いだした。 もはや自分の感情を自分であつかいかねた若者の、うろたえた泣き笑いの顔であった。 「いきなり妙なことを仰せられまする。この三郎が、父上をないがしろにしたなどと・・・・ハハハ・・・・そのようなお戯れを・・・・当分戦らしい戦もないゆえ、大浜で、しばらく釣りか鷹野でもせよというのであろうか。それにしては、お父上のみなりの仰々
しいこと」 「控えよ信康」 家康は、うろたえてゆくわが子を見るにしのびず、 「親吉、重政、小平太、早々に信康を大浜へ移すのじゃ。よいか信康、違背はならぬぞ、大浜にて沙汰を待てッ」 そう言い捨てて立とうとした。 「お待ち下されッ」 と、信康は切り割
くように呼び止めた。今まで笑っていた顔が見苦しいまでに引きつり、眉尻も唇辺の肉もヒクヒクと震えている。 「覚えがないとでも申すのか」 「はい、ござりませぬ!」 信康はたたき返すように答えて、膝で二、三歩追いすがった。 「この三郎は、お父上の子でござりますに」 「黙れッ」 家康の眼は赤くなって、じっと信康にそそがれた。 「その方、亡国踊りにうつつをぬかし、衣裳の醜
い百姓を斬り捨てた覚えはないか」 「それは・・・・それは、その者が、この三郎に命を狙ったゆえ・・・・」 「申すな。鷹狩の帰途に何のとがもない僧侶を馬の鞍に結いつけて殺したのは誰であったぞ」 「さあそれは、もはやお詫びの済んだこと・・・・」 「榊原小平太に雁股の矢を向けた覚えはないか。尾張からついて参った小侍従を手討にした覚えは・・・・いやそれだけではない。武田勝頼にない応し築山どのとともにこの家康を討とうと計った不届き者。親吉。信康を引っ立てえ」 「あっ!
お父上! お父上! それはあんまりな・・・・お父上・・・・」 だがその時には、すでに家康の姿はそこになく、野中重政と、平岩親吉とが、信康の両手にすがって泣いていた。 列座にうち、顔をあげているのは本多作左衛門ただ一人。それも、天井
を睨みあげて、はげしい感情をおさえている。 不意に、岡本平左衛門が、声をもらして号泣しだすと、家康について来ていた松平家忠
は、 「若御台はむごいお方じゃ!」 と、しぼりだすようにつぶやいた。みな、みなこの悲劇を、徳姫の告げ口からと思いこんでいる証拠であった。 信康はやがて放心したように坐り直した。 「今、おさからいあってはなりません。この場はひとまず大浜へ・・・・」 親吉が信康の耳もとでささやくと、信康はみどり児のような素直さでこくりとした。 「では、大浜へ発つとしよう」 「それがよろしゅうござりまする」 「今日は八月三日であったの・・・・奥方にも姫たちにも会わずに参ろう。わるい日であった」 また岡本平左が号泣した。 誰もまともに信康を見得る者はない。その間を信康は、魂のぬけた人のようにゆらりと立った。 「みなに心配をかけた。が・・・騒ぎまいぞ。このうえ父上を怒らせては相ならぬ」 信康の眼には家康が立腹しているとしか映らぬらしく、立ち上がるとじっと軒の雨音に耳をかしげて心をしずめる様子であった。 |