〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/06 (土) 追 放 (三)

もはや築山御前が、減敬や大賀弥四郎に利用されたことは疑うべくもなかった。
(油断であった・・・・)
信康は急いで玄関へ歩きながら、今さらのように母を哀れみ、自分の不注意を悔いていった。
あらぬ風評は再三耳に入っていた。
しかし謀反など、大それた事のできる母ではないと知っているので、いつも、一番痛いところに触れるのは無慙むざん 、労わって来たのが逆な結果になっていった。
武田勝頼はまた力を盛り返して、隙あらばと駿遠二州へ挑みかかっている。こうしたときに、誓書だの請け書だのが出て来たのでは、自分はともかく母の御前は救いようのない事になりそうだった。
築山御殿を出て、本丸へ向う途中、小雨の中に平岩七之助親吉が、髪も肩もぬれるに任せて立っていた。
わずかな間に、めっきり年取ったやつれ方で、眼に大きなくまができていた。
「若殿・・・・」
親吉は信康が近づくと、
「あれをご覧なさりませ」
と、木の間ごしに大手門の方を指した。
信康はギクリとした。家康がひきつれて来たらしい軍兵が門を固めて立っている。
「親吉、あれは何としたことじゃ」
「若殿・・・・決して大殿におさからいこれなきよう」
「うーむ。では父上も右府さまお言葉を真にうけられたのか」
「はい、いや、それ以上に苦しいご胸中・・・・まず広間へおもむかれてご対面なされませ」
信康は急にムラムラと激しい怒りを覚えていった。
(現在血肉を分けた子が信じられぬのか)
その不満が熱湯のように胸にあふれてくるのである。
その怒りは大玄関でさらに加わった。
「若殿、お太刀を」
そこに立っていて、佩刀はいとう を取り上げたのは榊原小平太だった。
「うぬッ・・・・」 と言いかけて信康は親吉をふり返った。親吉の眼は哀願するように信康にそそがれている。
「そうか、予は父上に、もうこの城を取り上げられてしまったのか」
「大殿が、お待ちかねでござりまする」
信康が大広間へ入ってくるのを家康は、正面の上段から氷のように見おろしていた。
「お父上、お出迎えもいたさず・・・・」
信康はその父を睨みあげるようにして坐ると、こんどは不意に言いようもない悲しみに襲われた。
一座はシーンとしてしわぶきする者もない。上座に坐っていた本多作左衛門が、半ばひとりごとのように、
「本日より、当岡崎城の留守、この作左が仰せつけられました」
そう言うとはじめて家康は口をひらいた。
「三郎信康、その方儀、今日限り、この城を追放、当分大浜にて謹慎申しつくる」
あらゆる感情をおしころした巨石のような言葉であった。
それを聞くと信康はカーッと眼を いて父を見上げた。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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