築山御前は一瞬ポカンとした痴呆のような表情で信康を見上げていった。 「信長どのが、このわらわを斬れと」 「いったいそれは誰に・・・・誰に、言ってよこしたのじゃ」 「浜松のお父上のもとまで」 信康は、なるべく母を昴
ぶらせまいとして、 「事情をこまかく調べるよう、平岩親吉を浜松へ遣わしましたが、いまだに戻って参りませぬ」 「なに、浜松の父上のもとまで・・・・」 築山御前はもう一度、おうむ返しにつぶやいて、それから甲高
く笑いだした。 「ホホホ・・・・浜松の父上には、いつから信長ずれの家来になったのじゃ。わが女房や総領を、斬れの切腹させよのと差し出がましい無理を言われて、それで黙っていやるのか。ホホ・・・・」 「母上」 「なんじゃ三郎どの。それでは父上は、一戦すると答えられたのであろう。こなたのもとへは徳姫という人質もあることじゃ」 「母上!」 「その決心がつかぬようでは武将ではない。三郎どのもすぐにご用意なさることじゃ」 信康はたまりかねて、ピシリと膝を打った。 「その儀について、母上にうかがっておきたい事がござりまする」 「潔く一戦するためにか」 「その決定は後のこと。母上は勝頼へ内応の誓書を送り、勝頼から請
け書 をとられた覚えがござりますか」 「えっ」 「安土にはその写しがあると申されまする。母上のおぐしあげ、琴女の手から、妹の喜乃に渡り、喜乃から小侍従の手を経て渡っている。それがわれら母子謀反の証拠と風聞されているそうな。そのような覚えが母上にござりまするか」 一瞬、築山御前の顔からサッと一度に血の気がひいた。 「覚えあらば、あるとハッキリお聞かせ下され。そのうえで思案せねばなりませぬ。ほかの誤解ならばとにかく、父にそむいて敵方へ内応したと言われては、この信康の一分が立ちませぬ」 「ホホホ・・・・」
と、また御前ははじけるように笑いだした。 「覚えがあると申したら、三郎どのはどうする気じゃ」 「では、事実母上は・・・・」 「請け書を取った覚えはある。それもこれもみな敵をあざむく策略じゃ」 「敵をあざむく策略とは」 「弥四郎や、減敬を、敵方の廻し者と見たゆえ、われらも同心したと見せかけたまでのことじゃ」 信康はじっと母を睨んだまま、わなわなと震えだした。 敵をあざむく策略・・・・そのようなことの出来る母ではなかった。とすれば、その証拠を取られたこの哀れな母を救う道があるであろうか・・・・? と、連れて来ていた小姓が次の間へやって来て、 「申し上げます」
と、両手を支 えた。 「ただいま、浜松より大殿さま本丸へご到着の由、平岩親吉さまより、お出迎えこれあるようにとのお知らせにござりまする」 信康はぎくりとして母を見ながら立ち上がった。
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