〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/06 (土) 追 放 (一)

酒井左衛門尉忠次が、岡崎を素通りしてそのまま浜松へ戻っていったということは、ひどく信康を不安にした。
「これは、おれの考えているよりも悪い事情にあるかも知れぬ」
信康は、それでもまだ、自分のみの破滅が来たとは思っていなかった。たとえ一時の誤解はあっても、信長は舅であり、浜松には父がいる。誤解をとくため、あれこれと交渉を続けて行くうち、必ずわが身の潔白は立つであろうと信じていた。しかし、母の築山御前の場合は、そう簡単には行くまいと思われた。
今にして思うと、減敬げんけい もあやしかったし、大賀弥四郎と母のつな がりもあったと見える。
野中重政のいうとおり、もしも母ヘあてた勝頼の書状の写しなどが、信長の手中に入っていたのでは、いかなる言いわけも無駄に思えた。
(そうだ、これは直接母にただしておかねばならぬ・・・・)
信康はその日も、午前中は馬場で過ごし、午後になって小雨の中を築山御殿へ出かけていった。
御前の侍女はあれからすっかり変わっていて、出迎えたのはお早という小娘だったが、信康を見ると、ホッとしたように、御前の居間へ案内した。
何か叱言を言われていたらしい。
「母上、お加減は?」
御前はまだ起き出したばかりと見え、居間の中央に毛氈もうせん を敷かせ、鏡を立ててかねをつけていたが、
「おお、これは三郎さまか。珍しい。さ、早くあたりを取り片づけよ」
と、自分で立って信康のしとねを直した。
いつか女性のたそがれ期に入って、ゆるんだ皮膚が悲しく、人の好さとわがままさが、そのままむき出しに感じられた。
「母上・・・・」
「はいはい、いま茶を入れさせましょう。毎日毎日ご精の出ることで」
「今日はちと、心がかりのことがあって参りました」
「心がかり・・・・」
御前は楽しむように首をかしげて、
「いよいよ、お側女そばめ がなければならぬと、ご思案なされたか。二十を過ぎて、世継ぎがない・・・・それではご先祖さまにも済まぬことゆえ」
信康は思わず眼をそらして、しばらく庭の雨あしを見つめていた。
「母上、実は安土の右府さまから、思いがけない難題が出されたそうで」
「なに、右府さまじゃと。三郎どの、この母の前で、いかにこなたの舅であっても、右府さまなどとはお呼び下さるな。信長どのは、この母の仇敵じゃ」
信康は答える代わりにため息して、
「その信長どのから、母上はざん 。この信康は切腹させよとお指図があったそうな」
「え?」 御前は、はじめは何を言われたのか分らぬ表情で、侍女の運んで来た茶をとりあげた。
「信長どのから、この母に、何を言われたとえ?」
「母上は斬るように、そしてこの信康には切腹をと・・・・」
信康はもう一度静かに言って、そっと視線を母からそらした。
ちょうどそのころ ──
家康の行列は本丸の大玄関に着いていたが、信康はそれを知らなかった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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