「その方、まだ何か言いたげじゃの」 家康は親吉のはげしい眼を見返しながらため息した。 「しかし、もう許さんぞ。おぬしは甘えている。世間のきびしさ、残酷さをよく知っていながら、この家康に甘えているのじゃ。七之助、わしはの、その甘える相手もない・・・・重ねて言うなよ」 七之助親吉は、それでもしばらく黙って家康を睨んでいたが、やがてがっくりと首を垂れた。 (おれはほんとうに大殿に甘えていたのだろうか) そう思うと不意に、今までと違った悲しみがひたひたと胸を占めてゆくのを感じた。 (死よりも辛い生があったを忘れていた・・・・)
「大殿! では、大殿は、三郎さまをこのまま見殺しになさるご決心をなされたとおっしゃりまするか」 家康はかすかに首を振って答えた。 「わしはの、信長どのの指図を待たず、進んで三郎を処分するかも知れぬ。わしは、誰の指図も受けたくないでの」 「すすんでご処分とは・・・・!?」 「それは訊くな、やがて分る。それよりもそちはすぐに岡崎へ立ち帰って、家中の者の騒がぬよう心を配ってくれぬか」 親吉はもう何も言うことが出来なかった。 誰の指図も受けたくないと言い切った家康の心が薄々想像できるからであった。 大久保平助が、奥平信昌一人の帰城を知らせて来たのはそのときだった。 家康はうなずいて、 「信昌の顔色は?」 と、平助にたずねた。平助は、そう言われて自分の顔の蒼白になっているのに気づいたと見え、 「恐れながら、この、平助ほどの顔色にござりまする」 「そうか、では事は決まった」 深沈とした表情でうなずいて、 「よい、信昌に、大儀であった、呼び出すまで休息するように申しておけ。それから七之助はすぐに岡崎へ帰るよう。また、本多作左衛門に、申しつけておいたこと、用意がよくば、これへ参れと伝えて来い」 平助が固くうなずいて出てゆくと、平岩七之助親吉は、これも一礼してあたふたと退いていった。 すぐに奥平九八郎信昌をらずね、何か知ろうとしているのに違いない。それと分っていながら家康があえて止めようとしないのは、もはや親吉が、何か聞かされても大局を誤ることはあるまいと信じてのことであった。 一人になると家康は脇息を前へすえ直し、その上へゆっくりと頬杖ついた。 開けっ放した庭から、妙に調節のない青蛙の啼き声がひびいて来る。雨の先ぶれでもあろうか。萩の花が微風にこぼれて、地べたの苔が紅葉したかに見えている。 「そうか。事は、やはり決まったか・・・・」 家康は、もう一度自分自身に言いきかせるようにつぶやいて、それからそっと眼を閉じた。 涙の乾いた瞼が痛く、九八郎信昌の蒼ざめた顔がはっきりと見得て来た。 たぶん九八郎は、忠次の弁疏にあきたらず、忠次より一足先に城へ着いてその旨
、家康に告げようとしているのに違いない。 が、家康は、それを聞くのが苦しかった。 |