「実は、そのほかにも心当たりがござりまする」 がっくりと首を垂れていった信康を見ると野中重政は、痛ましそうに顔をそむけて言葉を続けた。 「・・・・と、申しまするは、酒井左衛門尉どの、心の中では、築山御前をひどく危ぶんでおられたことにござりまする」 「危ぶんでは、いたであろう」 「若殿にもお分かりでございましょう。
左衛門尉どのは御前を、いつか徳川家へ抜き差しならぬ禍
をもたらすお方・・・・と、眉根を寄せて、われらに洩らしたこと再三。その左衛門尉どのが申し開きにおもむいたとて・・・・」 「もうよい」 信康はたまらなくなって重政の言葉をさえぎった。 「とにかく忠次や親吉の帰りを待つよりほかはあるまい。が重政、こなたも知るとおりこの信康、父に叛
いて武田勢へ内応する心などありようはない。おれは必ずこの身で、父へも舅御へも申し開きはしてみせる。案じて事を荒立てるな」 「その儀はしかと・・・・」 「よし、さがっていてくれ」 重政は信康の頬にも唇にも血の気のなくなっているのを見ると、これは一大事と思いながら、 「若殿にもお案じなされまするな」 と、笑顔を見せずには立てなかった。 「この重政、自身で左衛門尉どののお帰りを待ち、つぶさに事情を確かめまする」 信康は答える代わりに、じっと宙を見据えて何か考えている様子だった。 こうして、岡崎城には、表面静かな日がそれからもしばらくつづいた。 もう家臣の誰彼は、みなこの噂を耳にして、どうなることかと息をひそめている。ただ築山御前と、徳姫だけには誰も聞かせる者はなかった。 「今日も、御前は、若御台さまを訪れて、殿に側室をおすすめするよう強談されたそうな」 控えの衆の話を耳にはさんで城を出ると、野中重政は、街道筋を矢矧
の大橋のたもとまで出向いていった。 その日は朝になって雨はあがっていたが、まだ道筋はぬれたままだった。 番所へ着くと、足軽は重政の馬を預かりながら、 「すぐさっき、奥平九八郎さま、安土より浜松へと声をかけてお通りなされました」 と、報告した。 「なに、奥平どのが・・・・一人で先にか」 「はい、従者二名、ひどく馬を急がせまして」 「そうか・・・・」 重政はがっくりと床几
に掛けた。 奥平信昌一人が先に戻るのではすでに凶報と決まったも同じであった。 信昌は事態の急を、一刻も早く家康に告げようとして通って行ったのに違いない。 (それでは左衛門尉どのも、岡崎には立ち寄るまい・・・・) 重政の不安は的中していた。 信昌よりも二刻
ほど遅れて、馬を急がせてやって来た忠次は、大橋の番所に重政の姿を見ると顔色を変えた。 重政が信康の命令で、自分を斬りに出ているのでは・・・・と、感じたらしい。 「騒ぐでないぞ。今度
びは急いで浜松へ立ち戻る。浜松から追って沙汰があろうゆえ騒ぐでないぞ」 そういうと、重政の言葉など聞こうともせずに、あたふたと、街道を東へ去った。 |