「何と仰せられまする。右府さまから殿に」 重政があわてて訊きかえすのへ、信康は笑いながらうなずいてみせた。 「心当たりはさらにない。たぶん何かの誤解であろう。それで、浜松から酒井忠次が申し開きに安土へ行っているそうな」 重政はじっと信康を見返したまま黙っていた。 「それでの重政」 「はいッ」 「忠次が帰りにこの城へ立ち寄れば、何もかもハッキリすることゆえ、こなた街道へ誰かだしておいてくれぬか」 「左衛門尉さまを待つのでござりまするか」 「待っても無駄、と言いたげな顔つきじゃな」 「なんでまた大殿は、左衛門尉さまなどを遣わされたのか・・・・」 「重政!」 「はい」 「そなた、何か心当たりがありそうじゃの」 「はいッ、全くなくはござりませぬ」 「と申すと、この信康に何か疑いのかかることがあると言うのか」 「ござりまする」 と、重政は、小さく答えてうつむいた。 「ほほう、それは訊きたい、何であろうの」 「築山御前さま、甲州へ内通の儀にござりまする」 「それは・・・・それは申すな。過ぎ去ったこと、遠いことではないか」 「が、その遠いことが再び生きたのではござりますまいか。長篠依頼、しばらくひっそりしていた勝頼が、また活発に動き出しました」 「うーむ」 「殿!
あのころの密書はみな、右府さまの手もとに届いておりまする」 「まさか、そのようなことが・・・・」 「ないと思し召したいは人情でござりましょうが、築山御前さまお手もとの密書は、おぐしあげの琴女と奥にいられる喜乃の姉妹が、お手討なされた小侍従を通して、内容こまかく岐阜へ書き送ったと見るべき筋がござりまする」 こんどは信康が沈黙した。 今まで自分一人のことと考えていたのが、母の身にも及びそうになって来たのだ。 「すると、母の内通にこの信康も加担したとの疑いであろうかの」 「いいえ、そうとは思われませぬ」 野中重政はゆっくりと首を振った。 「これから内通の怖れがある・・・・と、思われたゆえんでござりましょう」 「なに、これから内通のおそれがあると。たわけたことを」 「と、仰せられても、御前はいまだに織田を仇敵と、若御台さまの前で呼ばれまする。それに密書は、織田、徳川の両家を滅ぼした上は勝頼殿に、織田家の所領の内一国を贈ると書いてござったようにうかがいました。それゆえ同腹と言い立てる所存ではござりますまいか」 信康はまた黙った。 事実、母の御前は、いまだに信康の前でも織田家を罵るのをやめなかった。 その憎悪はよく分るし、何の力もない御前のことゆえ聞き流しておいたのだったが、あるいはそれが抜き差しならぬ不幸を招いたのかも知れなかった。 「そうか。おれはその母の子でもあったのか・・・・」 すぐ軒下でまた一匹の油蝉が火のついたように鳴きだした。
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