信康はまたひとしきり徳姫を見つめていったのち、 「安土のこなたの父御さま、この信康に強い腹立ちと聞いたが」 いきなり切腹という代わりに腹立ちと言って一息つき、 「こなた何か思い当たることはないか」 と、声をおとした。 「安土の父が・・・・」 徳姫は首をかしげて遠くを見る眼つきになった。 「ずっと以前には、あれこれわらわから愚痴も書き送りましたが、それに返事らしい返事もなし、それゆえ、ここ二年近く、あまり便りもいたしませぬ」 「向こうから、何も聞かなんだと言われるか」 「はい、強い腹立ち・・・・と、いって、どのようなことを言いよこしたのでござりまする。わらわでかなうことならば、すぐ使者を立てまするが」 「そうか・・・・」
と、信康は考えて、 「まあよい。案ずることはあるまい」 自分から打ち消して、侍女の運んで来た茶に手をのべた。 なだ事の内容がよく分らず、忠次が申し開きに行っていると言うし、親吉は事情をたずねに浜松へおもむいているのだ。 その間に何も知らぬ徳姫に騒ぎ出されてはかえってまずいと、自分をおさえた。 「気にかかりまする。もそっと事情を」 「それがまだわからぬのだ。いや、案ずることはあるまい」 徳姫が何も知らぬということは、信康にとって救いであった。 「いま、細かいことは親吉が浜松へききに参っている。わかったらまた告げよう。だんだん暑くなるゆえ、子たちの体に気をつけるよう」 茶を飲みほして信康はすぐまた休息の間に戻った。 長く会っているのが何となく重苦しく、耐えられないからであった。 「野中
重政 を呼んでくれ」 居間に戻ると、信康は朝餉
の膳に向いながら小姓に命じた。 (食べ物の味がわかるであろうか・・・・?) 自分で自分を突き放し、信康は思わず頬を崩して笑っていった。 まだ信長が何を考えているかも、父が何に苦しんでいるかもわからないせいであろう。食事はいつもと同じに、二椀食べても三椀食べても美味であった。 四椀食べて笑いながら膳を下げさすと、野中重政はもう次の間へやって来て食事の済むのを待っていた。 「若殿、お呼びなされたそうで」 「おう、重政か、今日もまた暑うなりそうじゃの」 「仰せのとおり、あの油蝉の声を聞きますると、あれだけで、じっくり体が汗ばんで参りまする」 「なるほど、そう言われてみて蝉の声に気づいた。落ち着いているつもりで、やはりまだ未熟だったのかも知れぬ」 「何のことでござりまする殿、未熟とは」 「いや、実はな、親吉は今朝早く浜松へ参った」 「出陣の打ち合わせでもござりまするか」 「いいや、それが妙なことでの。浜松の作左のもとから知らせがあったそうな」 「ほほう、何の知らせが」 「おれに切腹せよと、安土の舅御が言って来たそうでの・・・・」 そう言うと、なぜか重政の表情はさっと曇った。
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