〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/31 (日) 鞭 の 足 音 (四)

信康はまたひとしきり徳姫を見つめていったのち、
「安土のこなたの父御さま、この信康に強い腹立ちと聞いたが」
いきなり切腹という代わりに腹立ちと言って一息つき、
「こなた何か思い当たることはないか」
と、声をおとした。
「安土の父が・・・・」
徳姫は首をかしげて遠くを見る眼つきになった。
「ずっと以前には、あれこれわらわから愚痴も書き送りましたが、それに返事らしい返事もなし、それゆえ、ここ二年近く、あまり便りもいたしませぬ」
「向こうから、何も聞かなんだと言われるか」
「はい、強い腹立ち・・・・と、いって、どのようなことを言いよこしたのでござりまする。わらわでかなうことならば、すぐ使者を立てまするが」
「そうか・・・・」 と、信康は考えて、
「まあよい。案ずることはあるまい」
自分から打ち消して、侍女の運んで来た茶に手をのべた。
なだ事の内容がよく分らず、忠次が申し開きに行っていると言うし、親吉は事情をたずねに浜松へおもむいているのだ。
その間に何も知らぬ徳姫に騒ぎ出されてはかえってまずいと、自分をおさえた。
「気にかかりまする。もそっと事情を」
「それがまだわからぬのだ。いや、案ずることはあるまい」
徳姫が何も知らぬということは、信康にとって救いであった。
「いま、細かいことは親吉が浜松へききに参っている。わかったらまた告げよう。だんだん暑くなるゆえ、子たちの体に気をつけるよう」
茶を飲みほして信康はすぐまた休息の間に戻った。
長く会っているのが何となく重苦しく、耐えられないからであった。
野中のなか 重政しげまさ を呼んでくれ」
居間に戻ると、信康は朝餉あさげ の膳に向いながら小姓に命じた。
(食べ物の味がわかるであろうか・・・・?)
自分で自分を突き放し、信康は思わず頬を崩して笑っていった。
まだ信長が何を考えているかも、父が何に苦しんでいるかもわからないせいであろう。食事はいつもと同じに、二椀食べても三椀食べても美味であった。
四椀食べて笑いながら膳を下げさすと、野中重政はもう次の間へやって来て食事の済むのを待っていた。
「若殿、お呼びなされたそうで」
「おう、重政か、今日もまた暑うなりそうじゃの」
「仰せのとおり、あの油蝉の声を聞きますると、あれだけで、じっくり体が汗ばんで参りまする」
「なるほど、そう言われてみて蝉の声に気づいた。落ち着いているつもりで、やはりまだ未熟だったのかも知れぬ」
「何のことでござりまする殿、未熟とは」
「いや、実はな、親吉は今朝早く浜松へ参った」
「出陣の打ち合わせでもござりまするか」
「いいや、それが妙なことでの。浜松の作左のもとから知らせがあったそうな」
「ほほう、何の知らせが」
「おれに切腹せよと、安土の舅御が言って来たそうでの・・・・」
そう言うと、なぜか重政の表情はさっと曇った。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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