「殿、ざれごとではござりませぬ。これから親吉はすぐに、大殿をたずねて参りまする。が、殿もお心なさりませ」 親吉の声は時々もつれそうになった。 信康はまだ信じられぬ表情で半ば笑ったままでいる。 「昨日、左衛門尉忠次どの、申し開きのためこの岡崎を通って安土へおもむいたはず、忠次どのは立ち寄られたかどうか。もし立ち寄らずに行かれ、立ち寄らずに浜松へ戻られたら、申し開きはかなわぬものと・・・・本多作左からの便りにござりまする」 「なに、昨日忠次が安土へ参ったと」 「はい、お立ち寄りなさらずに、そのまま通ってゆきました」 信康の頬にはじめて不安の色が動いた。 「では、誰かおれが事を舅御に讒言
した・・・とでも申すのか親吉」 「されば、この詳細、この親吉が浜松へ参って、大殿におたずねいたして参ります。それまでは、どこまでも表立てず、殿の胸一つにお納めおきなされますよう」 「そうか。そのようなことが・・・・」 「では、くれふれもご自重
遊ばされまするよう」 信康はこくりとうなずくと、そのまま小者を呼んで手綱を渡した。 「それがしが、舅御ごのに異心でも抱くと思われての事であろyか」 親吉はしかし、それの答えず、視線を伏せるようにして一礼すると、そのまま自分の馬を曳いて去って行った。 信康はしばらく眼の前で、ゆさゆさ動く青葉を見ていた。 もう陽は地平線を離れて、じりじりと襟足を灼いて来る。信康は歩きだした。 (何が勘気
にふれたのか・・・・?) 乗馬のあとで的場へ行くのが日課であったが、さすがに今日はその気になれなかった。 年々鬱然と緑を深くしてゆく本丸の周囲の松の間を抜けて、表と奥の間に作らせた休息の間へ入ってゆき、小姓の運んでくる茶を一口飲んで、すぐまたそれを手離した。 北の方の徳姫が、何か事情を知ってはいまいかと、はじめてそれに気づくほど、信康は茫然
としてしまったいた。 徳姫は、まだ朝食をすましていなかった。次の間に侍女の運んで来た膳部が、そのまま置かれ、髪をあげさせて手水水
をとったところであった。 「あ、これは取り乱して・・・・」 信康の姿を見ると、徳姫は急いで片付けるように眼くばせして、二人の姫に、 「ご挨拶を」
と、やさしく命じた。 上の姫は数え年五つ、下は三つであった。 「おとち様、お早うござりまする」 信康はそれにこくりとしてみせて、その場へ坐ったが、坐ってみると、さて、何と切り出してよいか途方に昏
れる問題だった。 徳姫にはべつに少しも暗い影はない。近ごろの夫婦の睦に満足して、動作の端々
まで明るかった。 「殿、何かございましたか、お顔の色が冴えませぬが」 ついに徳姫の方から、信康の表情の曇りに気づいていった。 「さ、姫たちは、あちらへ往んでお遊びなされ。殿、何か心配なことでも」 「お方は何も知らぬと見えるな」 「何も・・・・とは、何のことでござりまする」 徳姫はさしのぞくようにして信康を見上げていった。
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