「殿、ご精がでますなあ」 近づくと親吉は馬からおりて声をかけた。 「おう、この鹿毛はまだまだ力が足りぬようだ。乱戦となっては心もとない。もっともまだ若いせいもあろうが」 信康は改めて振り返りもせずに、汗に濡れた馬の前足をさすりながら、 「これから川へ乗り入れて洗うてやろうかの」 「殿・・・・」 「なんだ。あとひとつ、うわあごへ焼きこてを入れてみてくれぬか。素姓
はよい。名馬の素質はもっている」 「殿・・・・」 親吉はもう一度呼びかけて、それから何か口ごもった。 「用があるのか親吉、駿河へ出陣か」 「いや、ちと、気にかかることを耳にしましたので」 信康の視線が自分の上へ来てとまると、親吉は思いきった様子で信康を見返した。 「気にかかる事とは?」 「それで、それがしはこれから浜松へ往んで来ようと存知まする。殿・・・・殿は何か、酒井忠次どのに怨みを受くる覚えはござりませぬか」 「左衛門尉に怨みを・・・・そのような事があるものか。陣中の口論は口論ではない。互いによかれと思うて意見を闘わすのは評定のつねのことじゃ」 言いかけて信康は何か思い出したらしくニヤリと笑い、 「ああ、あのおふくの一件か」 「おふくの一件とは、何でござりまする」 「そちは知るまい。北の方のもとにいた、おふくがことよ。あれを忠次が欲しいと言う。北の方は、おれに断りなく忠次に遣ろうと約束し、吉田の城へ連れ去らせた。北の方はな、あとに菊乃がいる。おふくは三十になったゆえ、このままでは哀れと思うて計ろうたのじゃ。が、おれはなぜおれの許しを受けぬかと忠次と北の方を叱りつけた。それにはわけのあることじゃ。菊乃は母の御前が、おれに押しつけようとして連れて来た女子、それをそのまま召し使おうとして、おふくにまで暇を出したと、あとで北の方が母の御前に言われてはうるさかろうと、改めておれが叱って許したことにいたしたのじゃ。それは忠次も存じておる。しかし、そのようなことをこなたいずれから耳にした」 親吉は小首をかしげた。 「では怨みなどという筋合いではござりませぬなあ」 「知れたことじゃ。忠次は父の重臣、おれが争うようなことをするはずがない。が、それがいったいどうしたというのじゃ」 「殿!
お愕きなされまするな」 「大形
に申すな。それほどおれは肝は小さく生まれていぬわい」 「安土へ移らせられた右府さまから、若殿を切腹させよと、浜松の大殿のもとへお指図があったと申されまする」 「なに・・・・」 元康ははじめて馬から手を離して、 「おれに切腹・・・・安土の舅御
から何のためじゃ。とぼけたことを申すな親吉」 信康はてんで信じる色はなく、 「それと忠次と何のかかわりがある。あの爺
め、こなたをかついだとでも申すのか」 明るすぎる表情でそう訊き返されると、親吉は思わず顔をそむけて息をのんだ。 彼のもとへ、こんどの事を内々で知らせて来たのは本多作左衛門からだった。
|