〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/26 (火) 鞭 の 足 音 (二)

「殿、ご精がでますなあ」
近づくと親吉は馬からおりて声をかけた。
「おう、この鹿毛はまだまだ力が足りぬようだ。乱戦となっては心もとない。もっともまだ若いせいもあろうが」
信康は改めて振り返りもせずに、汗に濡れた馬の前足をさすりながら、
「これから川へ乗り入れて洗うてやろうかの」
「殿・・・・」
「なんだ。あとひとつ、うわあごへ焼きこてを入れてみてくれぬか。素姓すじょう はよい。名馬の素質はもっている」
「殿・・・・」
親吉はもう一度呼びかけて、それから何か口ごもった。
「用があるのか親吉、駿河へ出陣か」
「いや、ちと、気にかかることを耳にしましたので」
信康の視線が自分の上へ来てとまると、親吉は思いきった様子で信康を見返した。
「気にかかる事とは?」
「それで、それがしはこれから浜松へ往んで来ようと存知まする。殿・・・・殿は何か、酒井忠次どのに怨みを受くる覚えはござりませぬか」
「左衛門尉に怨みを・・・・そのような事があるものか。陣中の口論は口論ではない。互いによかれと思うて意見を闘わすのは評定のつねのことじゃ」
言いかけて信康は何か思い出したらしくニヤリと笑い、
「ああ、あのおふくの一件か」
「おふくの一件とは、何でござりまする」
「そちは知るまい。北の方のもとにいた、おふくがことよ。あれを忠次が欲しいと言う。北の方は、おれに断りなく忠次に遣ろうと約束し、吉田の城へ連れ去らせた。北の方はな、あとに菊乃がいる。おふくは三十になったゆえ、このままでは哀れと思うて計ろうたのじゃ。が、おれはなぜおれの許しを受けぬかと忠次と北の方を叱りつけた。それにはわけのあることじゃ。菊乃は母の御前が、おれに押しつけようとして連れて来た女子、それをそのまま召し使おうとして、おふくにまで暇を出したと、あとで北の方が母の御前に言われてはうるさかろうと、改めておれが叱って許したことにいたしたのじゃ。それは忠次も存じておる。しかし、そのようなことをこなたいずれから耳にした」
親吉は小首をかしげた。
「では怨みなどという筋合いではござりませぬなあ」
「知れたことじゃ。忠次は父の重臣、おれが争うようなことをするはずがない。が、それがいったいどうしたというのじゃ」
「殿! お愕きなされまするな」
大形おおぎょう に申すな。それほどおれは肝は小さく生まれていぬわい」
「安土へ移らせられた右府さまから、若殿を切腹させよと、浜松の大殿のもとへお指図があったと申されまする」
「なに・・・・」
元康ははじめて馬から手を離して、
「おれに切腹・・・・安土の舅御しゅうとご から何のためじゃ。とぼけたことを申すな親吉」
信康はてんで信じる色はなく、
「それと忠次と何のかかわりがある。あのじい め、こなたをかついだとでも申すのか」
明るすぎる表情でそう訊き返されると、親吉は思わず顔をそむけて息をのんだ。
彼のもとへ、こんどの事を内々で知らせて来たのは本多作左衛門からだった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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