〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/26 (火) 鞭 の 足 音 (一)

信康はその朝も未明に床をけって馬場へ出て来ていた。
父の家康も、祖父の広忠も毎朝駒をかこったこの岡崎城の馬場には、桜の古木が鬱然うつぜん とならび、重なりあった青葉が朝靄あさもや の中で山脈のように見えた。
そのまわりを片肌脱いだ信康は疾風のように駆け去り駆け来たって、ときどき平首にうく馬の汗を見やっていた。
あやめに思いがけない死にようをされてから、信康の心は一筋に武芸の鍛錬にかたむいた。
いや、その途中で、一時は流行の踊りに溺れていこうとしたこともあったが、それはどうやら信康にわれを忘れさせるには至らなかった。
いつもどこかであやめが淋しげに自分を見つめている。
(── あやめ、うぬはなぜ死んだのだ)
心の中で呼びかけると、あやめは黙ってかすかに首をふるだけだった。
(── わからぬことをする奴だ。おれの心をふみにじって)
その信康も、近ごろは信康なりにあやめの死を解釈するようになっていた。
あやめは、何よりも信康と徳姫の不仲をおそれていたのだと思った。自分のために夫婦の間が不和になっては、織田家へも徳川家へも済まぬ事と、小心な善良さで思い悩んでいた。そこへ築山御前が菊乃という娘を連れて来たので、信康の愛情のひかへ移らぬ間に死を選んだのだ・・・・と、解していった。
それ以来、信康は徳姫との間の和合を考えるようになっていた。
心のどこかで、それが、あやめの冥福めいふく を祈ることと、そんな気持ちも動いていたのかも知れない。
そう言えば菊乃はあのまま徳姫のもとで十六歳になっている。
母の築山御前はそれが気に入らず、
「── 三郎どのは、いつになっても世継ぎをあげぬ北の方に、何の遠慮をなさるのじゃ」
時々やって来て、徳姫に聞こえよがしに言って帰ったが、信康はもう笑って済ました。
当の菊乃が、すっかり徳姫の召し使になりきって満足しているせいもあった。
和合というのはふしぎなものであった。信康が徳姫と睦もうと心掛けるようになってみると、徳姫の方もまた、あっけないほど簡単にこだわりを捨てて来た。
「── 殿、お許しなされて・・・・わらわは殿を憎んだことがござりました」
閨の中で、思い出したように詫びたるする徳姫は、かっての日のあやめよりも素直な女に見えたりした。
(── おれは武将の子であった。わき目はふるまい。まだあれこれ、父に劣りすぎている)
そう思い、あらから酒を節して、夜は武辺ばなし に熱中し、昼はきびしい鍛錬に没頭している信康だった。
信康は、馬のあえ ぎが荒くなりすぎたのを見て、ひらりと地上におり立った。
「いくじのない奴め、まだいくらも駆けておらぬぞ」
平首をたたいて馬に話しかけているところへ、これも騎乗の平岩親吉がせかせかと近づいてくるのが見えた。
すっかり空は晴れて、頭上へぬぐったような青空が広がり、ぐっしょりと汗のとおった肌を、涼しい風が快くなでて通った。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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