〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/25 (月) 落 雷 (二)

お愛はびっくりして、視線を動かし、そこに家康の姿を見つけると、驚いたように床の上へ起き直った。
「そのまま、そのまま・・・・」
「これは、存ぜぬこととて、とんだ粗相を」
「いやいや、お手柄だった。また男だとのう、長松も弟が出来てよろこぼう。まだ名がついていない。そこで道々考えて参った。さきのが長松ゆえ、こんどは福松ふくまつ にせよ」
「はい、福松丸さまでござりまするか」
「そうじゃ。福松丸・・・・陣中にある身でなければ、諸儀式、きちんと挙げてやりたいのだが、敵を眼の前にしてそれもかなわぬ。堪忍いたせ」
みどり児の寝顔をのぞき込んでそう言ったあとで、
「妙なものじゃ」 と家康はお愛の方に微笑して見せるのだった。
「あとからできる者ほど可愛い気がする。早く親に別れるからじゃと俗に言うが、そんなものかも知れないの」
「はい」
お愛は素直に答えはしたが、これはなが彼女に分る感情ではなかった。
お愛に分っているのは、家康が日増しに虚名を嫌って、きびしくおのれの内部の充実を志してゆくことだけだった。
それは信長が破竹の勢いで伸びれば伸びるほど、家康を深く、きびしく沈潜させて行く陰陽両極のひらきのように見えた。
「信康は二十一になった。於義はまだ手もとに取らぬが七つ、長松は四つ、福松が当歳か。これに信康の子がの、孫の竹千代が生まれたら、みんな揃って、城で能でもやるとしようかの」
「そう言えば若殿さまに、早くお世継ぎが・・・・」
「その事じゃ。が、それもやがてかなえられよう。お愛」
「はい」
「こなたは寝ていてもなかなか気の休まらぬたち・・ じゃ。あれこれ考えず、早く丈夫になるよういたせよ」
「ありがとう存知まする」
「では、わしはこらから、また駿河へ行かねばならぬ。その前に打ち合わせもあることゆえ、充分気をつけてのう」
家康は立ちぎわにもう一度、馬糧の匂いのしみついた手で、そっとみどり児の頬にさわって立ち上がった。
お愛は膝を揃えて床の上に平伏している。
外へ出ると、まだ陽ざしは傾きかけたばかりであった。
西の空にもくもくと入道雲がわき立っていたが、すぐ夕立になりそうな気配もなく、今日はこのまま乾いて暮れてゆくであろう。
「殿!」
家康がもう一度、信康からいま、福松と名づけられたみどり児まで、ひとわたりわが子の顔を思い浮かべて歩いているところへ、いつ離れていったのか、せかせかと作左が戻って来て、ひどくたか ぶった様子で声をかけた。
「何だ作左、おぬしらしくもない。何かあったのか」
「殿! 信長めが、ついに牙をむき出しましたぞ。もともとあ奴は狡猾無類な猛獣なのだが」
「たしなめ作左、何という口の利き方をするのじゃ」
そうは言ったが、家康の表情もサッと鉛をはいたように曇っていった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next