お愛はびっくりして、視線を動かし、そこに家康の姿を見つけると、驚いたように床の上へ起き直った。 「そのまま、そのまま・・・・」 「これは、存ぜぬこととて、とんだ粗相を」 「いやいや、お手柄だった。また男だとのう、長松も弟が出来てよろこぼう。まだ名がついていない。そこで道々考えて参った。さきのが長松ゆえ、こんどは福松
にせよ」 「はい、福松丸さまでござりまするか」 「そうじゃ。福松丸・・・・陣中にある身でなければ、諸儀式、きちんと挙げてやりたいのだが、敵を眼の前にしてそれもかなわぬ。堪忍いたせ」 みどり児の寝顔をのぞき込んでそう言ったあとで、 「妙なものじゃ」
と家康はお愛の方に微笑して見せるのだった。 「あとからできる者ほど可愛い気がする。早く親に別れるからじゃと俗に言うが、そんなものかも知れないの」 「はい」 お愛は素直に答えはしたが、これはなが彼女に分る感情ではなかった。 お愛に分っているのは、家康が日増しに虚名を嫌って、きびしくおのれの内部の充実を志してゆくことだけだった。 それは信長が破竹の勢いで伸びれば伸びるほど、家康を深く、きびしく沈潜させて行く陰陽両極のひらきのように見えた。 「信康は二十一になった。於義はまだ手もとに取らぬが七つ、長松は四つ、福松が当歳か。これに信康の子がの、孫の竹千代が生まれたら、みんな揃って、城で能でもやるとしようかの」 「そう言えば若殿さまに、早くお世継ぎが・・・・」 「その事じゃ。が、それもやがてかなえられよう。お愛」 「はい」 「こなたは寝ていてもなかなか気の休まらぬたち
じゃ。あれこれ考えず、早く丈夫になるよういたせよ」 「ありがとう存知まする」 「では、わしはこらから、また駿河へ行かねばならぬ。その前に打ち合わせもあることゆえ、充分気をつけてのう」 家康は立ちぎわにもう一度、馬糧の匂いのしみついた手で、そっとみどり児の頬にさわって立ち上がった。 お愛は膝を揃えて床の上に平伏している。 外へ出ると、まだ陽ざしは傾きかけたばかりであった。 西の空にもくもくと入道雲がわき立っていたが、すぐ夕立になりそうな気配もなく、今日はこのまま乾いて暮れてゆくであろう。 「殿!」 家康がもう一度、信康からいま、福松と名づけられたみどり児まで、ひとわたりわが子の顔を思い浮かべて歩いているところへ、いつ離れていったのか、せかせかと作左が戻って来て、ひどく昂
ぶった様子で声をかけた。 「何だ作左、おぬしらしくもない。何かあったのか」 「殿! 信長めが、ついに牙をむき出しましたぞ。もともとあ奴は狡猾無類な猛獣なのだが」 「たしなめ作左、何という口の利き方をするのじゃ」 そうは言ったが、家康の表情もサッと鉛をはいたように曇っていった。
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