〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/25 (月) 落 雷 (一)

家康は武装のまま青葉あおば 東風こち の下をお愛の方の産屋へ急いでいた。
この四月二十三日に、ふたたび武田勝頼が穴山梅雪の居城、駿河の江尻えじり まで兵をすすめて出て来たので、家康はそれを迎え撃つため出陣していたのである。
勝頼も、長篠の敗戦に懲りて、その駆け引きは慎重をきわめ、容易に出て決戦を挑もうとはしない。そこでやむなく旗本をとどめて対陣させたまま、家康はひとまず浜松へ引きあげて来たのであった。
お愛の方はこんどが初産ではなかった。
天正四年の七月に、すでに一子をあげている。
長松丸ながまつまる と名づけた後の秀忠ひでただ はそれで、同時にお愛の方は西郷さいごうゆぼね と呼ばれ、正妻のいない浜松城では、特にみんなに親しまれもし、尊敬もされていた。
その西郷の局となったお愛の方が、戦場から戻ってみると、第二子を産んでうたのである。家康にとっては信康、於義おぎ まる 、長松に次ぐ四男の誕生だった。
「── またまた男子ご誕生にござりまする」
留守を預かっていた本多作左に聞かされると、
「── そうか、それは大手柄だった。長くも城にいられまい。対面していこうかの」
武装も解かずに産屋訪問となったのである。
この城も、本多作左衛門に命じて、以前よりぐっと大きく城郭じょうかく を広げていたが、その質素さは安土の結構などとは比ぶべくもなかった。
信長の推挙で、家康もすでに官位は従四位下左近さこん 衛権えごんの 少将しょうしょう に任ぜられ、領土も徐々に多くなっている。したがって、生活もそれに従い、いくぶん華美さを加えてもよいはずだったが、家康は逆にぐっと締めていった。
かって、一汁に五菜を許した家康が、一汁三菜でよいと自分から言い出し、飯にも、麦を二分混ぜよと命じるなど、なるで意地になっているかのような節倹ぶりであった。
「── これでものう、百姓どもよりぐっと贅沢ぜいたく じゃ。百姓どもが何をすすっているか、見てくるがよい」
そう言いながら、焼き味噌をきれいにすすいで飲んだり、香の物をバリバリと音をたてて噛みくだいだりする家康を見ると、つねに賛否は相なかばした。
偉い大将と褒めるものと、生来のりんしょくが顔を出したのではあるまいかと危ぶむものと・・・・
家康は、作左の案内で、城の北すみに建てられた かわ きの小さな産屋の前に来ると、従者をそこにとどめてそっと、かわ 草鞋わらじひも をといていった。
「よいよい。声はかけるな。眠っていたら、そっとのぞ いて、そのまま立ち去ろう」
新しくこの世に生を けた者に接する気持ちはかくべつだった。
出迎える乳人めのと と侍女を眼で制して、ひそかに産屋の襖を細目にあけさせ、その前に立つと少年のように胸の動悸の高まってゆくのがわかった。
中では、かたわらにまだ肉塊に似たみどり児を寝かせて、お愛の方が、ぱっちりと眼を開いて天上を見つめていた・・・・
「お愛・・・・」
家康はできるだけおどろかすまいとして、低い声で呼びかけた。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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