長篠城にこもっていた奥平九八郎貞昌のもとへ本多平八郎忠勝の手の者が、岩伏せの渡しから救いの兵糧を運び込んで来てくれたのは同じ日の暮れ方だった。 すでに一粒の米もなくなっていた城兵は、これを見ると歓声をあげてそのまわりに集まった。 「これこれ、はしたないぞ」 そう言いながら、九八郎はともすれば眼がかすんであたりが見えなくなりそうだった。 「敵は退いたとは言え、油断があってはならぬ。かがり火を焚け。腹ごしらえはそのうえだ」 九八郎はただちに炊爨
を命じたうえで、ふと一人のかついでいる旗に目をつけた。 「はて、その旗は何としてのだ。それは八幡太郎義家から伝わったという武田家重代の源氏の白旗ではないか」 すると、忠勝の家臣で兵糧を宰領
して来た原田弥之助が、 「いかにも、その白旗でござりまする」 と、事もなげに答えた。 九八郎は首をかしげた。 「その白旗をどうして、そちの組下がかついでいるのじゃ」 「この弥之助が拾ったのでござりまする」 「なに、重代の旗をそちが拾ったと」 「はい、それがしが拾ったとき、側におりました梶
金平 が、敵の旗奉行にこう言いました。──
やあやあ勝頼、命おしさに遁げ出す途中とは言いながら、先祖伝来の旗を渡すとは何ごとじゃ」 「ふーむそのように慌
てていたのかのう」 「慌てる段ではござりませぬ。それでもさすがに旗奉行は羞
かしかったと見え ── 愚か者よ。その旗は古物ゆえ捨てたのじゃわい。べつに新しい旗がこのとおり、ここにあるぞと申しました。ところが金平も負けてはおらず ──
なるほど武田家では古物はみな捨てるのじゃな。馬場、山県、内藤などの老臣も、みな古物ゆえ捨ててしまったのか・・・・と。こんどは聞こえぬふりをして逃げてゆきました」 そう言って弥之助はおもしろそうに笑ったが、九八郎は、 「そうか、そのようにのう」 と、笑う代わりにため息した。 滅ぶる者と興る者。 眼に見えない何ものかがそてをきびしく裁いてゆく。 あまりに鮮やかな勝利が、九八郎にはかえって薄気味悪かった。 (いったいこの勝利から何を学ぶべきと言っているのであろう・・・・?) 「全く勝頼という大将、どの面さげて甲州へ戻ってゆく気か。一万五千、ほとんど全部失ったげにござりまする」 「案ずるな。信州へ入って行けば海津
の高坂 弾正
だけでも八千の兵は持っているわい」 九八郎は弥之助を渡し口まで送っていって、しばらくそこに立ち尽くした。 昨日までずらりと対岸に陣取っていた敵のかがり火がなくなって、滝沢川の面はチカチカと星が映っている。 九八郎はなぜか胸がつまって、呼吸が苦しくなって来た。 「鳥居強右衛門、戦は勝ったぞ。もはやどこにも敵は見えぬぞ」 九八郎は小声でつぶやくと、不意にはげしく、肩を揺すって男泣きに泣き出した。 |