〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/25 (月) 決 戦 (七)

(勝った戦にしてはこの淋しさは何事であろうか・・・・?)
と、九八郎は自分を叱った。死んでいった家臣のための悲嘆ならば、一万数千を失った勝頼の悲嘆の深さは計り知れまい。
戦っている間に感じたあの猛々しい憎悪と闘魂は消えうせて、今ではな悄然と山路に駒を急がせているであろう勝頼の姿が、強右衛門の次に しく想い出されるのはなぜであろうか。
チラチタとまたたいているあちこちの星は、山路を落ちて行く勝頼の位置からも、信長、家康の陣屋からも、同じ星として望めるのだという事が今夜の九八郎にはふしぎに想えてならなかった。
まもなく城のあちこちに赤々とかがり火が焚かれだした。
最初の炊き出しが配られたと見え、そこここではじけるような笑い声が湧き上がった。中には手を取り合って踊る者や唄う者が出て来ている。
九八郎はひとわたり炊き出しの行き渡ったとおもうころに本丸の大台所に土間に入っていった。
そして、こうした手ひどい経験にはじめて会った亀姫が、きりりとした襷がけで、味噌を焼いているのを見るとようやくホッとして、
(勝ったのだ・・・・)
と、自分にむかって微笑した。
「どこを歩いてでございました。さ、召し上がりませ」
亀姫は九八郎の姿を見つけると姉のような母のような態度で、くり盆にのせた握り飯と焼き味噌を良人おっと の前へ運んで来た。
九八郎はゆっくりと上がりばな に腰をおろして、
「お方も食べるがよい」
一つつまんで、うやうやしくそれに頭を下げた。眼の前にいる亀姫も、かまどの火の色も、握り飯も、味噌の匂いも、すばてが、はじめてこの世に出会ったもののように新鮮に眼に映った。
「戦とはおかしなものよのう」
いつかかたわらにうずくまって、眼の合うたびに微笑しながら握り飯を食べだした亀姫にそういうと、
「いいえ、おかしなものではございません」
と、亀姫ははっきりと割り切っていた。
「戦いとは強いものが勝ちます。辛抱しんぼう の強いものが」
九八郎はその夜、万一残敵の逆襲はないかどうかを警戒して明け方までに三度城内を見廻った。
そして、そのたびに、自分は、武将としては、まだまだ臆病に、あれこれ考えすぎる質なのではなかろうかと思った。
しかし、それは翌日城内に、家康を迎えてみて、
(これが当然だったにのだ・・・・)
と、自分の心の動きに納得できた。
あわてて敷かせた本丸の畳の上で、九八郎と対面した時の家康は、これも戦勝の歓びなどとはおよそうらはらの表情だった。
家康は、よく守ったと、むしろ鎮痛に九八郎の労をねぎらったうえで、
「これで織田どのに大きな借りができた。いずれそれを返させられようでの」
小声でつぶやいて、それからじっと九八郎の心をのぞく眼つきになり、かすかに頬を崩しかけて、すぐまた笑いを納めてしまった。
戦はこれで終わったのではない・・・・その淋しさを噛みしめている顔に見えた。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ