信房は手兵を三隊に分けて近づく敵の中へ斬り込ませた。 そしてそれが押し寄せる敵の中に姿を消すと引き揚げの法螺を鳴らした。そのたびに少しずつ陣を後方にひいて、勝頼には近づけまい作戦だった。 はじめ千二百あった手兵が、一度斬りこみを敢行させると、次は八百あまりに減っていた。 それがまた三隊に分かれて斬りこみ、さらに陣を後方へと退いた時には六百、三度斬り込ませて退いた時には二百に減じていた。 もはや勝頼の旗下の目印である大文字の小旗は緑の中にかげを没して見えなくなっている。 信房はさらに四度目の逆襲を敢行した。彼みずから陣頭に立って、縦横に馬を駆り、近づく敵を突き伏せてゆくうち、いつか味方は二十人ほどに減っていた。 戦死した者のほかに、手負いも、逃亡者も、投降者もあったであろうが、昨夜までの味方の威容を考えると、悪夢の中に取り残された感じであった。 「もうよい引き揚げよ!」 彼は、自分に続く二十騎あまりの旗本に告げ、彼みずからは何を思ったかいきなり馬を乗り捨てた。 戦っては退き、退いては戦っているうちに、いつか猿橋にほど近い出沢の丘までやって来ていた。 あたりには生い茂った夏草と、それを動かす風と光があるだけで、近くには敵の影は見えなかった。 信房は草むらの上にあぐらを掻いて、はじめて全身の疲労を意識した。兜を脱いでしぼるようなえりあしの汗を拭きながら、ふと信玄の幻を瞼
に描いた。 「四郎さまは落とさせました。これでご恩の・・・・」 万分の一をお返しした・・・・そう思わずにはいられない自分の末路に苦笑した時だった。 いきなりかたわらの草がゆらいで、そこから一人の徒士
の武士が槍を構えて踊り出した。 「敵か味方か」 と相手は言った。 「塙
九郎左衛門 直政
の郎党岡 三郎左衛門、来いっ」 「ほほう、そちは運のいい男だの」 「何だと、立てっ、立って尋常に勝負しろ」 「岡三郎と申すか。槍を捨てて介錯
いたせ。武田の老臣、馬場美濃守信房、そちにこの首進ぜよう」 「なに、馬場美濃守信房だと」 「そうじゃ。運のいい奴、槍を捨てて介錯せよ」 信房がそういうと相手はしばらく小首をかしげて迷っていた。 信房ほどの大将が、嘘を言うとは思われず、さりとて槍を捨てては不利と考えている顔であった。 信房は腰から太刀をはずして左手へ抛
った。 「人が来てはそちの手柄にはなるまい。来ぬうちに急げ」 もう一度うながすと、だんだん雲の動きの早くなった空を見上げ、それから瞑目
合掌していった。 徒歩の武士ははじめて槍を捨てた。すらりと刀を抜きはなつと信房のうしろへ廻り、 「潔い最期、戦って勝った首とおれは言わぬ」 誰にともなくそういうとサッと太刀をふりおろし、信房の首はコロリと前へ落ちていった。 |