〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/22 (金) 決 戦 (四)

どうして多くを殺そうかと、絶えず眼をひからし牙をむいて前進しつづけている戦魔。その姿を馬場信房もハッキリと見たような気がした。
敗戦などと言うものではなかった。
武田源氏の家宝であった八幡はちまん 太郎たろう 義家よしいえ の白旗は、もはや滑稽きわまる一枚のボロ切れにすぎなかった。
ついこの間まで天下に武田勢ありと強豪を誇った戦術兵法が、ひとむらの泡沫に変わってしまったのだ。
この手も足も出ない惨敗の知らせは、櫛の歯をひくように勝頼の本陣へ注進されているのに違いない。
「若殿も、不運な人よ」
その勝頼がやがてたまりかねて医王寺山を降りて進んで来だした。
信房はそれを見ると、また使い番を呼んで、
「すでに勝敗は決したと申し上げよ。この信房がここで敵を喰い止め、しんがりをつかまつる。その間に少しも早く甲州へお引きあげ下されと・・・・よいか、今生こんじょう ではもはやお目にはかかりませぬと、しかと申せ」
そして、使者の姿がうしろへ消えると、信房は再び金鼓を鳴らして、織田勢の前へ立ちふさがった。
まっ先の柴田勢が、まず進撃を止め、つづいて秀吉の手兵が立ち止まった。
まだ総攻撃の命は下っていなかったが、誰の眼にも今は追撃の潮どきと見えていた。
「かかるな、かかるな、相手がかかって来たらあしらうのだ」
信房は、まだうしろの勝頼が気にかかった。
彼の忠告を容れて、すぐ引きあげにかかってくれなければ、再び甲州の土の踏めなくなる怖れがあった。
甲州へ落ちのびさえすれば、すぐには、織田、徳川両軍とも攻め寄せることはあるまい。その間によくよく反省されるようにと心に祈った。
使者の戻って来たのは、それから四半刻ほどしてからであった。
「仰せ、相分ったと、旗を返してござりまする」
「そうか、素直に聞き入れて下されたか」
「すぐにお聞き入れなく、穴山入道さま、鎧の袖をつかんで武田家存亡の分れ路と強諫きょうかん され、ようやく納得なっとく にござりました」
「そうか。穴山どのが・・・・それでよかった」
信房はそう言うと、森かげを出て東方へ小手をかざした。医王寺山を西へおりかけた旗の列が、まるほど北へ向って動き始めている。
「よし、これで信玄公への面目も相立った」
織田勢はこのとき、丹羽五郎左衛門の一隊から再びはげしく挑んできた。
信房は陣頭に立ってこれを迎えた。
と、そのときにはもはや信長の本陣から総攻撃の命は下り、織田勢の南から東に、大須賀おおすが 五郎左衛門ごろうざえもん康高やすたか 、榊原小平太康政、平岩七之助親吉、鳥居彦右衛門元忠、石川伯耆守ほうきのかみ 数正、本多平八郎忠勝など徳川方の勇将が、先を競って柵外へ斬って出ていた。
「一人も逃がすな。眼の前の敵を蹴散らし、勝頼の首級しるし をあげよ」
馬場信房の一隊はその前へ立ちふさがって攻撃の的になった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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