〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/22 (金) 決 戦 (一)

りすぐった武田勢の騎馬武者に対して、徒歩で立ち向って来ると言うのは、考えてみればおかしなことであった。
徒歩立かちだ ちの兵に対して馬の蹄はいまの戦車ほどに役立つのだ。
山県三郎兵衛は、鞍の上へ突っ立つようにして、
「かかれッ!」
采配さいはい を振りながら、
(これはわれらを柵内へ誘い込むためのおとり ではあるまいか) と、ふっと思った。
もしそうだったら、みすみす敵の罠におちる ── ふと心に疑惑が芽生えた。そのときに、大久保党から、いきなり第一の射撃を受けた。
およそ七、八十挺と思われる。この射撃が山県三郎兵衛の疑惑を大きく一掃した。
(大久保勢はこれを頼みにして出て来たのか)
それならば止まったり、退いたりは出来なかった。
後方で、すでに鳶の巣山が奪われている。鳶の巣山には武田たけだ 兵庫助ひょうごのすけ 信実のぶざね が立てこもっていたのだが、それを破った相手は誰であろうか。とにかくこの奇襲をあえてするのは凡将ではない。
万一退いて前後から鉄砲で挟撃されるようなことがあっては武将としてこの上もない恥辱であった。 (よし、逡巡しゅんじゅん なく駆け散らそう)
ようやく目の前の柵も、その向こうの極楽寺山、松尾山も山容をはっきりあらわし、林間をうずめつくす旗の波が見えてきた。
今日の信長は茶磨山と分っているので、そこまで一気に踏み込んで突破とっぱ こう を作ってやる気であったが・・・・
大地を震撼しんかん させて、山県勢は大久保党に襲いかかった。
大久保党では、騎乗は大将の七朗右衛門忠世と、弟の治右衛門忠佐だけだった。
「兄者、来たぞ」
弟の忠佐はぐるりと馬を輪乗りにして、兄の顔を見るとクスリと笑った。そして馬の尻をを敵に見せると、
「引きあげえ!」
大きくどなっておいて、いきなり自分がまっ先に柵の中へ退いた。兄の七朗右衛門もそれにつづいた。また柵ぎわで鉄砲が鳴った。
怒涛どとう のように押し寄せてくる山県勢へ、せいぜい二、三十挺の鉄砲は、何人傷つけ得たか分らぬほど微力なものに思えていった。
したがって怒涛は蜘蛛くも の子を散らすように、大久保勢のあとからドッと一度に柵ぎわまで押し寄せた。
柵の内からバラバラと矢が飛んで来た。中には槍を構えて内側に待っている者もある。
「今だ。柵を踏み潰せ!」
「蹴散らして信長の本陣へ殺到さっとう しろ」
ワーッとみんなは第一の柵に馬をのりかけた。そこここで、メリメリと柵木を倒す音がしだした。
と、そのときだった。
柵の前に密集してしまった騎馬武者二千の上へ、信長の伏せてあった千挺の鉄砲が、いちどにダダーンと天地をゆすって射ち出されたのは・・・・
一瞬あたりはシーンとした。
一発一人必ず倒すと言われた片眼をつぶって狙う信長の新式鉄砲。それが千挺、一度にかたまった人垣を見舞ったのだ。
硝煙のゆるく西に流れ去ったあとの柵前には、主人を失った馬だけが、キョトンと取り残されて、人の数は数えるほどしか残っていなかった。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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