「では、すぐにこのまま長篠へ戻ると申すのか」 家康はふくれあがる感情を抑えて、また平静な声でたずねた。 「わしも、すぐに駆けつける。そのとき一緒では心にすまぬか」 「ありがたき仰せ・・・・それをうかがえばいっそう早く立ち戻りとう存じまする」 強右衛門は言外に援軍の出発をうながしている。その気持ちを汲んで、わしもすぐに・・・・と言ってくれた家康の心がたまらなくうれしかった。 「そうか。九八郎はよい家臣を持った。よいよい、では、そのままそちを信長公に引き合わせよう。洗足
だけとってついて参れ。これ平助、強右衛門にすすぎを取らせて連れて来るように」 強右衛門の眼は真っ赤に血をふくんでいった。 九八郎がよけいなことを言うなと言った意味が心に徹って来るのである。 (何を言わなくとも、こっちの心は見通していてくれるのだ・・・・) それなればこそ信長の前につれ出し強右衛門の耳で、直接信長の返事を聞かせて戻そうとなさるに違いない。 (さすがに・・・・)
強右衛門はいちどお台所のわきの入り口へ連れてゆかれ、そこから平助の案内で、また家康の居間へ戻った。 家康はもうそれを出口で待っていた。 本丸の大書院を信長の寝所にあてていたので、 「さ、来るがよい」 家康はそのまま強右衛門を連れて歩き出した。ようやく外では小鳥の声がはじけ出し、東の空が黄金色に色づきだしていた。 信長のもとへはすでに小栗大六が、先におもむいて知らせてあったので、信長は鎧下
のまま脇息によりかかって待っていた。 信長は家康に会釈
するよりも先に、 「そちが子鬼の家臣か。話は聞いたぞ!」 と、弾みきった声で強右衛門の平伏も待たずに言った。 「よくやった! 川の底を歩いて来たと・・・・ハッハッハ、こんどは空をかけて帰れ」 「ははッ」 「鳥居強右衛門と申したの」 「仰せのとおり・・・・」 「立ち戻ったら、すぐまた、その雁峰山とやらでのろしをあげてやれ。さすれば城兵は勇気づく。よいか、あと一両日のうちに、徳川、織田の連合軍四万あまりが押し寄せる。到着したらすぐに敵は蹴散らしてやるゆえ、それを楽しみに待っておれと伝えよ」 強右衛門はぼーっとあたりが見えなくなった。 これはまた家康とまるで違った畳みこむような言葉であったが、その声を聞いていると、蹴散らされてゆく敵の姿が、まぼろしになって見えて来そうな不思議な魅力にあふれていた。 「あっぱれじゃ!
鬼の子にはやはり鬼の勇士の家臣があった。城内に帰るときは心せよや。よいか、必ず生きて戻ってな、すぐに参ると言ってやれ。いや、大儀であった!」 四万あまりとはまた吹きまくったものであったが、それが信長の口から聞くと少しもおかしくないのがひしぎであった。織田勢は二万、徳川勢は八千と分りきっているくせに。 「仰せ、いちいち根性にきざみつけてござりまする。ではこれにてご免!」 「おお行けッ!」
叱りつけるように言ってから信長は家康を振り返ってカラカラ笑った。 「もはや時は移せぬぞ浜松どの」 家康はこくりとうなずいて、黙って去ってゆく強右衛門の荒くれた後ろ姿を見ていた。
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