笑いながら家康は、信長の性格にふと怖れを覚えて口をつぐんだ。 いさ起
つまでは冷静な計算を続けて行くが、いったん起ってしまうと、完膚
なきまで相手をたたきつけねば止まない残酷無類な一面を持つ信長だった。 叡山の焼き打ちなども、その性格の現れだったが、昨年の七月、伊勢の長島に一向宗徒を攻めた時なども眼を蔽わしむるものがあった。 「──
慈悲忍辱 を口にしながら、火銃をもてあそび、刃物三昧
に明け暮れする。こんどこそは絶対許さぬ。懲
しめのため、皆殺しじゃ」 そういうと、その言葉のとおり長島御堂に逃げ場を失った本願寺勢二万を、御堂ぐるみ火にかけて一人残らず焼き払ってしまったのだ。 そのような信長が、昂然と
「武田首ないあしたかな」 そう詠じ、勝算を胸にたたんで出て来たのである。 それによって、戦の性質はがらりと変わってゆくことを、家康はしっかりと腹に入れておかなければならなかった。 (いままでは徳川対武田の戦であったが、これからは織田対武田の戦になる・・・・) 勝ったあとで、信長に、徳川家の内部の事にまで口出しされぬよう、慎重な用意をもって信長に対さなければならなかった。 「大六、奥平貞能
に向こうで会わなんだか」 しばらくして家康はぽつりと訊ねた。 「はい、お目にかかりました。この戦はどこまでも徳川家の浮沈にかかわる戦ゆえ、援軍の出発を見届けるまで、岐阜は去らぬと、信長公に申し上げた由にござりまする」 「あの年寄りの言いそうな事じゃ。そうか、どこまでも徳川家の浮沈にかかわる戦と念をおしたか・・・・」 「はい、奥平どのも、この大六も、事
ごとに念を押してござりまする」 「よし、大儀であった。さがって休め」 こうして、翌十五日に信長父子は岡崎城へ入って家康父子に対面した。 むろん双方の重臣、老臣居並んでの体面だったので、ここではどこまでも儀礼をまもった双方の挨拶
だけだった。 信長は絶えず口辺に笑いを浮かべていたし、家康はいつも何ごとも考えていないように静かに見えた。 双方の参謀たちが軍評定をひらいたのはその夜であったが、これもいわば顔つなぎの酒宴に終わり、ただちに両将相たずさえて岡崎を発向するものと思っていたのに、信長は翌日も岡崎に泊まると言い出して動かなかった。 家臣たちはじりじりした。しかし、家康もまたあえて、信長を急かせようともしない。 「ごゆるりと休養されてお出なさるがよろしかろう」 その家康のもとへ長篠城を脱出した鳥居強
右衛 門
が、乞食のような姿でたどりついて来たのは十六日の早暁だった。 「お館さま、長篠からの密使にござりまする」 家康はすでに床をはなれて、物具をつけかけていたが、それを聞くと一瞬眉間
に深い縦皺 をきざんでいった。 もはや長篠からの吉報のあろうはずはなかった。 (援軍を求めて来たか、それとも城将の討ち死にか・・・・) 「この庭先から案内してくるように」 そう言って、家康は縁へ床几の用意をさせた。 |