〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/21 (木) 決 戦 前 夜 (三)

大久保平助は万千代の声を聞くと、うさぎ のように松蔭をふんで跳ねて来た。
「お館さま、小栗大六さま、岐阜から立ち戻られてござりまする」
「なに大六が戻ったと。そうか、すぐに参る。予の今へ通しておけ」
「かしこまりました」
平助はまた跳ねるように去ってゆく。家康はつかつかと急ぎ足になって、ふと自分に問いかけた。
(援軍が来ないと分った時は・・・・?)
「よし!」
それは家康が、自分の覚悟を、自分で見きわめて、自分に返す一諾いちだく だった。
家康はいちど急ぎかけた足をゆっくりと以前のそぞろ歩きに直して、そのまま居間の庭先にまわっていった。
万千代はいぜん無言で、ひっそりとついて来る。
家康はきちんと庭下駄をくつ ぬぎの上に揃えて脱いで、
「大六、どうであった。大儀であったの」
すでにそこへ通って、真っ四角に坐っているお使い番に声をかけた。
「お館さま! 明日信長さま親子、この岡崎にご到着の予定にござりまする」
「そうか」
何気なく答えはしたが、一瞬、家康はぐっと息が胸に詰まった。
「それで兵数はどれほどかの」
「二万にござりまする」
「それはまた、ご造作をかけたものじゃ」
「はいッ、これで・・・・これで・・・・」
そう言うと、大六もまた、たまらなくなったと見え、いきなりはかま の膝をつかんでおもて を伏せた。
もう酒宴も閉じたと見えて、大広間の方も以前の静けさに戻っていた。
「大六、そちの気持ちは分る。が、これで終わったのではないぞ」
「は・・・・はいッ」
「これから始まるのじゃ。して、織田どのは相変わらずお元気か」
「はい・・・・ここに、出発に先立ち、信長さまの興行された連歌れんが がござりまする。これを・・・・ご覧下されませ」
「ほほう、連歌をやられてご出発か。どれどれ」
家康は平助の取って渡す紙片をひらいて声を立てて読んでいった。
  松高く (松平・徳川の意) たぐひなきあした かな  信長
「たぐひなき」 の下に括弧かつこ して (武田首なき) と記してあった。
家康は笑って次を読んでいった。
  しろうは みえぬ卯花かさねて  久庵
  入月も山方うすく消えはてて   紹巴
  小田 (織田) はさかりに なびく秋風   信長
「なるほどのう、松高く、武田首なきあしたかな。四郎は見えぬ卯花かさねてか」
「はい、入月も山方 (甲州) うすく消えはてて、織田はさかりになびく秋風・・・・その意気はすでに敵をのんでござりまする」
家康ははじめて大きく口を開けて笑った。
「ハッハッハッハ、織田どのらしいの、まず大きく法螺ほら を吹かれて、それをわが身の鞭になさる。わしはこう吹き立てられぬ。見事な吹きようじゃ、ハッハッハッハ・・・・」

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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