〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/20 (水) 緒 戦 (十三)

姫は、良人の明るさに誘い込まれて、自分も笑いながら築山に登っていったが、良人の指さす城の四周を見てゆくうちに、全身は硬ばり、膝頭はふるえだした。
一万五千という数は、しばし家人の口から聞いていたが、これほどおびただしいものとは思っていなかった。
「あれが医王山、あれが大通寺山、あれがうばふところ 、あれがとび 山、あれが中山、あれが久間山・・・・」
と、指される限り、旗と人馬でうずまっている。
敵がやって来たと知った瞬間、すでにこの城は消えてしまいそうな小ささに感じられた。
もしこのとき、そっと振り返った九八郎の横顔に、ふだんと違った緊張が少しでも見られたら、あるいは姫は、大地に膝頭をついてしまっていたかも知れない。
「どうだ、見事なものであろうが」
「は・・・・はい」
「わしも武将に生まれた冥加みょうが には、一度でよい。このくらいの人数が指揮してみたいの」
「早く、ご武装なさりましては」
「なあに急ぐことはない」
と、九八郎は笑った。
「敵はいま、ようやく飯を炊きだしたところだ。われらの飯はもうできている。さて、戻って、腹いっぱい湯づけでも詰めるかのう」
姫はホッと吐息をもらしながら良人のあとから山をおりた。
顔ばかりではない。歩き方も、落ち着きぶりも、清々すがすが しい朝の光の中で少しもふだんとは変わっていなかった。
九八郎が、大あぐらで湯づけを食べだすと、重臣たちから、どの方向に陣取ったは誰らしいと次々に知らせてきた。
そのたびに九八郎は、
「そうか」
と、飯を噛みながら答えるだけで、何の指図もしなかった。
「急いで、野牛門にお出で下さるようにと、松平三郎次郎さまがお待ちかねでござりまするが」
そういうと、
「特に急ぐには当たらぬ。分りきっている者が、分りきった時にやって来ただけじゃ」
それからまたひとしきり、焼き味噌のうまさをほめたり、そばで見ている姫に話しかけたりして、そろそろと武装にかかった。
信長の武装の早さはこのあたりまで聞こえていたが、九八郎貞昌はその反対だった。ゆっくりと、あのひも 、この紐をしらべていって、楽しむように結んでゆく。
が、いったん支度したく ができると、それからの命令は峻烈しゅんれつ をきわめた。
畳という畳はすべてあげさせ、ふすま はきれいに取り外させた。
万一敵に石火矢のたぐいを放たれても、すぐに火の消せるよう、建物内のいずれでもつねに太刀の振れるよう、煙硝蔵えんしょうぐらのまもりと、鉄砲隊の移動は、いつでもできるよう、飲用水の使用をきびしく節するよう、その指図は詳細をきわめた。
その日は敵はどこからも戦の火蓋は切って来なかった。
「旅の疲れを癒してござるようだの。こちらは、退屈して力が余って困っているというのに」
しかし翌八日になると城の南に陣取った、武田逍遥軒の軍から動き始めた。
武田勢は、この天嶮の要害にどこから手をつけようかと考えて、ついに南を選んだらしい。
「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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