〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/20 (水) 緒 戦 (十二)

城兵五百で、一万五千の猛攻に、いかなる手段を講じても対抗してゆく。そのうちには家康が信長を語らって決戦にやって来る。
それまでは是が非でもこの城を落としてはならない。もし、この城が落ちたら、勝ち誇った甲州勢はひた押しに、吉田城から浜松を襲い、さらに岡崎から尾張おわり へなだれ込んでゆくに違いない。
甲州勢にもしも尾張の土を踏ませることがあったら、そのときは徳川家がもはや地上にないときなのだ。
その意味を九八郎は酒宴で飄々ひょうひょう と、しかし、くり返しくり返しみなに印象させた。
そして翌日からはいよいよ暑さを加えてゆく陽射しの下で、あの土嚢どのう 、このさか 茂木もぎ 、あの砦と指揮者も人夫もひとつになって立ち働いた。
もはやこの城にある者の運命は、大将も足軽も、男も、女もひとつであった。
甲州勢を打ち破って徳川方の大きな開運のくさびとなるか、それとも一同城を枕に白骨をさらして行くか・・・・
季節は五月に入った。
山ほととぎすが城の野牛門から竜頭山の青葉の方へ鋭い声でよく渡った。
城郭の修理、施設はやりつくして、夜が明けると、城のあちこちでは、
「やっ!」 「とう!」
と、はげしい斬り込みや、夜襲の稽古けいこ の声がつづいた。
どこから敵がやって来ても、必ず撃退してみせる・・・・ということは、敵に少しの油断があったもただちに撃って出て、その虚を突き得る攻撃力を持っているということだった。
「よいか、ひっそりと城にこもっているだけでは、遠巻きにして敵は吉田へさくぞ。それをさせてはならぬのだ。退くも進むも出来ぬように釘づけにしておいて、折を見ては荒肝をひしぐがわれらの役目ぞ。忘るなよ」
巻きわらを斬る者、土俵つちだわら を突く者、力石をさす者、弓を射る者と見てまわって、そのあとは必ず九八郎は笑いとばした。
「ワッハッハ・・・・これで勝ったの、勝ったわ勝ったわ」
はじめのうちはこの九八郎の笑いに合わす者はまれ であった。
しかし、日夜の訓練がやがて彼らを不敵な明るさにしていって、今では九八郎が笑うとみんな大口をあけて、咽喉のど ぼとけを陽にさらすようになった。
五月七日の朝であった。
亀姫が、昨夜の睦まじい語らいを、そのまま夢に持ち込んで、甘く薄目を開けてみると、かたわらにはもう九八郎の姿はなかった。
びっくりして姫は起き出した。
良人おっと の起きていったのを知らずに眠っていた自分が、この緊迫した空気の中ではひどく済まないものにも、羞かしいことにも感じられた。
九八郎は親ゆずりで、朝は必ず諸肌もろはだ むぎになって太刀を振った。はじめは三百回ずつだったのが、今では五百回になっている。
場所は寝所のすぐ裏の築山のかげであった。
「殿、殿はもう太刀を振り終えられてか」
庭下駄をひっかけて、姫が築山のそばに出て行くと、
「おう」 と築山の上から九八郎の声が呼んだ。
「来たぞ来たぞ、ここへ登って見るがよい。あっちもこっちも旗の波、いやはや見事なものぞ」
「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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