亀姫の生涯で、そのときほど狼狽したことはなかったと、近ごろになって姫自身、九八郎に打ち明けた。 いきなり抱き上げられた時にはカーッと体中が怒りの燃えたと姫はいう。それでしたたか九八郎の頬をなぐりつけてやろうとし、気負いこんで右手をあげていった。 しかしそのときには、姫はあられもない姿でまだ家臣どもの立ち去らぬ襖
のわきへ投げ出されていたのである。 「何をするのじゃ! かよわい女子を・・・・待て殿!」 あわてて乱れた裾をおさえてさけんだが、そのようなことで振り返ったり、歩みを止めたりする九八郎ではなかった。 「今宵は忙しいと申している」 見返りもせずにさっさと表へ消えていった。 「このままでは済ませぬ。このような恥辱
を受けて・・・・」 亀姫はその夜まんじりとも出来なかった。すぐに浜松の父のもとへ使いを立て、離縁してもらおうと考えたが、それだけでは怒りは解けそうにもなかった。 (そうだ。何か大きな恥辱を与えてから・・・・) その翌晩も九八郎はケロリとした表情でやって来た。 そして声高にまた、越後の謙信入道がどうの、織田の大将がどうのと武辺話に興じてゆく。それの終わるのを待って、亀姫は自分の方から九八郎にしなだれかかった。 相手に恥辱を与えるためにはそうしたことで近づいて、あとで面もあげられないほどきびしく拒んでやることだと亀姫は思ったのだ。九八郎はそのときに、うやうやしく姫から体を引いた。 「本日は祖父のご命日でござる。お方もおつつしみあるように」 そう言われると姫はもう三度目の作戦につまってしまった。同じ手段でまた拒否されたら、傷つくのは九八郎ではなく自分になる。 九八郎はそうした姫の逡巡にたくみにつけ入って姫をおさえた。 「姫が身も心もわが妻になるまでには幾年
かかるかと心ひそかに案じていたが、これは案外なことであった。心の底では、姫は九八郎を好いていたと見えるなあ」 契りのあとで、九八郎は例の無神経さで淡々と言ってのけた。 「よい女房におなりなされ。それが女子の仕合せというものだ」 当然一つぐらいは平手打ちが来るかと、九八郎は思っていた。が、その時姫は、ぼんやりとしばらく宙を見ていたあとで、ワーッと九八郎にすがって泣いた。 何で泣いたのか、今もって分らない。が、それからの姫は九八郎にとって申し分のない妻であった。 少し口うるさい傾きはあったが、こまかいところにまで実によく気がついた。そして今度の城郭
修理 がはじまってからは、しげしげとその模様を父家康のもとへ書き送っている様子であった。 九八郎を通じて、亀姫ははじめて父の立場まで了解したのであろう。 「万一のときはわらわも、この城で殿と死にます」 今はハッキリとそう言っていた。その言葉の裏には、家康がわれら夫婦を見捨てるものかという確信がきざまれている。 そうした九八郎のもとへ最初の援軍がやって来た。 | 「徳川家康
(七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ | | |