戦魔は勝頼に苛酷
であった。 大賀弥四郎の刑死 ── という一つの蹉跌
は甲州軍にとって決して小さな出来事ではない。 それだけに、ここで一歩冷静に作戦を練り直すべきであったが、事態は逆に煽
っていた。 勝頼は内心の狼狽をつつむため必要以上に感情的になっていた。 「── 弥四郎の死などは問題ではない」 と彼は幕下
の諸将にいった。 「── 岡崎が先か、長篠が先か、踏み潰す戦の順序が違ったまでだ」 そういうと、すぐに武節の小城に入って軍評定に移っていった。 弥四郎の内応が露見している以上、岡崎城の戦備は完全と見なければならない。したがって岡崎城に攻めかかり、ここでもし日時を費やしては、西からの織田の援軍と浜松吉田の東の兵に挟撃されよう。 「岡崎は問題にするな。ここで鉾
を転じて長篠城をふみつぶせ」 そのためには、ここまで出て来たことも無駄ではない。彼らは本隊が岡崎を衝くものと信じて、長篠の兵を割いている ── と、強弁する勝頼だった。 こうして長篠城の図面はついに諸将の前に広げられていった。 この豊川
の上流、大野 川
と滝沢 川
の合流点に築かれた嶮岨をほこる山城は、二本の川の合した正面の絶壁に野牛門があり、それに細く長い橋がかかっていた。 そこを度合
といい、その西北に本丸があり、本丸の向って左手に弾正
曲輪 、うしろに帯
曲輪、そのまたうしろに巴
曲輪、瓢 曲輪とつづいている。 家老屋敷は弾正曲輪の外にあり、大手は西北搦
め手 は東北にあった。 したがって、これを一挙に揉みつぶすには、南は正面の度合から攻め、西は滝沢川をはさんで揉み、東は大野川を距てて鳶
の巣 山を中心にした、中山、君
ヶ伏戸 、姥
ヶ懐 などから攻め立てねばならなかった。 ひとわたり、あらゆる場合の評定がすんで、 「本陣はいずれにおかれまする」 小山田備中が問いかけると、 「城の北、医王
寺 山におく」 勝頼は寸秒もいれず答えた。 「三千の予備隊をここへとどめ、指揮をとろう。それでよかろう」 まっさきに野牛門あたりの先頭に立つと言いはしまいかと案じていた人々はそれでホッとしたらしかった。 「で、全軍はいくつに分けられまする」 と、馬場美濃守信房
。 「北、西北、西、南、東南とそれに本陣、この六つでよかろう。異見があったら申して見よ」 「恐れながら」 と、山県三郎兵衛が口を出した。 「そのほかに遊軍と後軍と、都合で八つにお分け願わしゅう存知まする」 「なに遊軍?
あの嶮岨な山間で、遊軍の出没が思うままに威力が持てるか」 「持てる持てぬではなく、そうするが、戦の常道かと・・・・」 「分った! その指揮は誰が取るのだ」 「この山県三郎兵衛と、高坂源五郎
で有海 村の辺りに待機いたしとうござりまする」 「なに、有海村に・・・・」 そういうと、勝頼の額にはこう癇筋
が走っていた。 「三郎兵衛、おぬし、はじめから気おくれしているのではあるまいな。負け戦の準備を」 | 「徳川家康
(七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ | | |