〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/16 (土) 緒 戦 (五)

引き立てられてきた男は、およそ間諜かんちょう などのつとまりそうにもない、六十を越えた、いかにも愚かしげな小肥りの老爺ろうや だった。
「その方は何の所用で岡崎からこっちへ参ったのだ」
「はい、私はこの先の根羽に娘と孫と一緒に住んでおります。はい、綿の種をあきな いに出て、売りつくしましたゆえ、ここまで戻って来ましたので」
「それが、何でうろうろと、あちこちの陣をのぞき歩いたのだ」
「いいえ、のぞくなどととんでもないこと ──」
老人は真剣なおび えをあらわに見せて、
「私が、ここから通ろうとすれば、おん大将がた。あっちから通ろうとすれば、またおん大将がた・・・・それで腰が抜けかけて、木の根にすくんでいたのでござりまする」
備中はちらりと勝頼を見て、指揮を待つ顔になった。
「おん大将さま、あのう、根羽はもしや戦で、焼かれたのではござりますまいか」
「その方は、予が誰か知っているか」
勝頼はじっと老爺を見つめたままで口を開いた。
「まことに申し訳ございません。まく のご紋で武田さま方と存じまするが、おん大将さまのお名前などは・・・・」
「知らぬと、ここは通さぬと申したら何とするぞ」
「お慈悲でござりまする。はい、婿はこの前の戦のときに流れ矢に当たって死にました。二人の孫と娘と私・・・・娘はそれからずっと病身で、はい、私が働かねば孫どもが・・・・」
じい !」 と、勝頼はようやく相手が土民とわかった様子で、
「そなた岡崎の町外れで何を見たと? のこぎり引きの罪人を見て来たと」
「は・・・・はい。それはそれはむごたらしいものを見て、それ以来、食事のたびに吐き気をもよおして困っています」
「その者の様子、見たままそこで申してみよ」
「はい。顔はすっかり薄紫にはれあがり、通行人に蹴られたり踏まれたりいたしますので、額の皮はむけ、唇はざくろのように割れておりました」
「それで・・・・」
「それが大声で、助けてくれ! と、私たちに頼むのでござりまする。この穴から引き出してくれたら、あとでどのようなお礼もする。おれは三河奥郡おくごおり の・・・・何でも代官さまだとか。はい。みんなゲラゲラ笑いました。そんな偉い侍が、あかごのような声を出してワーワー泣くものかと・・・・」
「もうよい。してその者の名は?」
「はい大賀弥四郎とかいう悪人だと立て札にござりました」
勝頼はそっと額の汗を拭いた。
備中びっちゅう 、すぐに人を出して真偽をたしかめさせよ。この者は、その知らせが参るまで、武節の城にとどめおけ」
「立てッ!」
「おん大将さま、私は決して・・・・」
勝頼はその老人が連れ去られると、いきなり床几を立って幔幕の外へ出て行った。
雨はいぜんとして木々の若芽をほぐそうとして柔々やわやわ 降っている。峰から峰のはざま、橋から渓流の行方ゆくえ に、あたためられた乳のようなもや があった。
「そうか大賀弥四郎はしくじったか・・・・」
勝頼はぐっと胸をそらして、傷ついた鷹のようにあたりを睨んで歩きまわった。
「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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