引き立てられてきた男は、およそ間諜
などのつとまりそうにもない、六十を越えた、いかにも愚かしげな小肥りの老爺
だった。 「その方は何の所用で岡崎からこっちへ参ったのだ」 「はい、私はこの先の根羽に娘と孫と一緒に住んでおります。はい、綿の種を商
いに出て、売りつくしましたゆえ、ここまで戻って来ましたので」 「それが、何でうろうろと、あちこちの陣をのぞき歩いたのだ」 「いいえ、のぞくなどととんでもないこと
──」 老人は真剣な怖
えをあらわに見せて、 「私が、ここから通ろうとすれば、おん大将がた。あっちから通ろうとすれば、またおん大将がた・・・・それで腰が抜けかけて、木の根にすくんでいたのでござりまする」 備中はちらりと勝頼を見て、指揮を待つ顔になった。 「おん大将さま、あのう、根羽はもしや戦で、焼かれたのではござりますまいか」 「その方は、予が誰か知っているか」 勝頼はじっと老爺を見つめたままで口を開いた。 「まことに申し訳ございません。幔
のご紋で武田さま方と存じまするが、おん大将さまのお名前などは・・・・」 「知らぬと、ここは通さぬと申したら何とするぞ」 「お慈悲でござりまする。はい、婿はこの前の戦のときに流れ矢に当たって死にました。二人の孫と娘と私・・・・娘はそれからずっと病身で、はい、私が働かねば孫どもが・・・・」 「爺
!」 と、勝頼はようやく相手が土民とわかった様子で、 「そなた岡崎の町外れで何を見たと? のこぎり引きの罪人を見て来たと」 「は・・・・はい。それはそれはむごたらしいものを見て、それ以来、食事のたびに吐き気をもよおして困っています」 「その者の様子、見たままそこで申してみよ」 「はい。顔はすっかり薄紫にはれあがり、通行人に蹴られたり踏まれたりいたしますので、額の皮はむけ、唇はざくろのように割れておりました」 「それで・・・・」 「それが大声で、助けてくれ! と、私たちに頼むのでござりまする。この穴から引き出してくれたら、あとでどのようなお礼もする。おれは三河奥郡
の・・・・何でも代官さまだとか。はい。みんなゲラゲラ笑いました。そんな偉い侍が、あかごのような声を出してワーワー泣くものかと・・・・」 「もうよい。してその者の名は?」 「はい大賀弥四郎とかいう悪人だと立て札にござりました」 勝頼はそっと額の汗を拭いた。 「備中
、すぐに人を出して真偽をたしかめさせよ。この者は、その知らせが参るまで、武節の城にとどめおけ」 「立てッ!」 「おん大将さま、私は決して・・・・」 勝頼はその老人が連れ去られると、いきなり床几を立って幔幕の外へ出て行った。 雨はいぜんとして木々の若芽をほぐそうとして柔々
降っている。峰から峰のはざま、橋から渓流の行方
に、あたためられた乳のような靄
があった。 「そうか大賀弥四郎はしくじったか・・・・」 勝頼はぐっと胸をそらして、傷ついた鷹のようにあたりを睨んで歩きまわった。 | 「徳川家康
(七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ | | |