勝頼はしばらく息をつめて釣閑を睨んでいた。父すら落とせなかった高天神の城を落としたということは、父の死後、勝頼のただ一つの誇りであった。 それを武田家滅亡の先ぶれとは何という底深い父への思慕であろうか。しかもその思慕はつねに自分への軽侮
、不信を伴っているのである。釣閑はそれを心に刻
んでおけと言う。わざわざ刻めと言われるまでもなく、勝頼にとってこれほど心外なことはなかった。 「そうか・・・・」 と、しばらくして勝頼は、怒りを押えて吐息した。 「それもこれも、わが家を想い、わが身を案じてのことゆえ予はとがめぬ」 釣閑はそういう勝頼の心のうちを、細かく計算しきった表情で、 「要するにこの派の人々は・・・・」 と、言葉を続けた。 「織田、徳川と和議を結んで、ご当家は東へ翼をのばされるがよいと考えているのでござりまする。もっと細かく申せばこの際、信長公の御子、御
坊丸 さまに東美濃を与え、家康どの異父弟、久松
源之助 どのに、駿河のうち城東
郡を与えて、これに上様の妹姫を娶合
わせられ、逆に小田原を攻めらるるが上策と信じているのでござりまする」 「釣閑、もう申すな。小田原とてわが妻の実家ぞ」 「それは存じておりまする。それゆえ今度の西上は、それらの異見を抱く方々をよく納得させねば士気にかかわる一大事と・・・・」 一座はシーンとなった。 勝頼が手にした白扇でぴしりと脇息
をたたいて釣閑の口を封じたからであった。 「相分った! よく申した」 蒼白な額に、血がのぼって勝頼の頬は湯上りのように赤らんだ。 「卜斎!」 勝頼は入側
まで来て皆のうしろに坐っていた板坂卜斎をほとばしるような声で呼んだ。 「小
納戸 の者に命じて、宝蔵から諏訪
法性 の甲冑
と家伝の旗をこれへ持たせッ」 卜犀がはッと答えて立とうとすると、 「上さま!」 三郎兵衛がひと膝すすめて、 「待て卜斎」 と、卜濟をとめた。 「なきお父上様さえ、うかとは手を触れさせなんだご重代の甲冑を・・・・」 「申すなッ、卜斎、早くこれへ持参させよ」 「はッ」 卜犀はふたたび立ち、一座は凍
てついたように、きびしい沈黙におちていった。 いかなるときにも、この家宝をかざして出
で立つ戦には異議を挟まず生命を落とせと言い伝えられている品々だった。 それをここへ運んで来いとは、もはや誰も何も言ってはならないということだった。 一座ははじめのきびしさからだんだん低くうなだれだした。長坂釣閑だけは、そうしてうなだれてゆく人々を意地悪い眼でみつめてゆく。 「みなの心はよう分る・・・・」 湯上りのような頬をして勝頼は頭を下げた。 「この勝頼の生涯に二度ない好機、父の遺志を継がせてくれ、三河勢など・・・・長篠城など・・・・ひと揉みにつぶしてみせてやる。小異を捨てて微力な勝頼を助けてくれ」 一座のすみで、洟
をすする音がした。そっと手の甲で涙をぬぐっているのは、信玄とは瓜二つの弟、逍遥軒であった。 | 「徳川家康
(七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ | | |