「揃って何事じゃ!」 勝頼はわざと声を暴
くして、庭先からずかずかと高殿
へ階梯 をのぼっていった。 むろん来意はわかっていた。今になってまだこの出陣をとどめようとする。それが血気の勝頼にはたまらなく不快であった。 「すでに軍議は決定したはず、いまさら臆病風に誘われたのではあるまいの」 そういうと勝頼は、叔父の逍遥軒
から、山県 三郎
兵衛 、馬場
美濃守 、真田
源太 左衛門
、内藤 修理
と睨むように見ていった。長坂
釣閑 、小山田
兵衛 まで、後列にひっそりと坐っている。 「三郎兵衛、なぜ黙っているのだ。すでに方々
の先手衆 へはそれぞれ使者を出してある。本隊が遅れては済むまい」 「仰せのとおりでござりまするが」 と、源太左衛門が口を開いた。 「徳川どの、岡崎の城にあった九八郎が父奥平貞能
に、小栗 大六
を付して岐阜に援兵を乞わしている由
にござりまするが」 「分っているわ。信長はむろん兵を三河
に割 こう。割かねば、美濃へ攻め入ってからの重荷になる。あとの荷を先に扱うまでと思わぬか」 「恐れながら」
と、三郎兵衛が小兵
の膝をぐっと立ててみんなの前にすすみ出た。 「殿には鉄砲の威力をどのように考えさせられまするや、それをうかがいおきたく存知まする」 「鉄砲が、敵に比べて僅少
すぎると申すのか」 「信長どのは、鋭意それを取り揃え中と、忍びの者からの知らせにござりまする」 「ハハ・・・・」 と、勝頼は笑った。 「三郎兵衛、鉄砲と申すはな、火縄、玉ごめと、手数のかかる武器じゃ。雨中では役に立たず、玉薬を合わせている間に、躍りかかって、蹴散らしたら大事あるまい。いや、わかった。よく心しよう。敵に鉄砲の備えがあると見たときは、雨を待って襲うとしよう。それでよいであろう」 「申し上げまする」
と、こんどは長坂釣閑だった。 釣閑は内心は主戦派だった。それが神妙な顔でみんなのうしろについて来ているのが勝頼にはいぶかしかった。 「われら、歯に衣
を着せぬが先代さま時代よりの慣わしゆえ、まっすぐに申し上げまする」 「おお、申してみよ」 「過る年、高天神
を陥 れ、この甲府城に凱旋して大広間で戦勝祝いを張りましたとき・・・・」 「そのときになんとしたのだ」 「高坂
弾正 どの、盃をあげてそれがしを顧
み、ハラハラと落涙なされました」 「なんで弾正は泣いたのじゃ」 「これは武田家滅亡の盃、悲しいこことつぶやかれて」 「なにッ」 勝頼の眼がかっと一度に燃え上がった。 「高天神城は、お父上もいくたびか攻めながらついに落とせぬ城であった。それを予の代になって踏み潰
した。それが滅亡の兆しというのか」 「恐れながら仰せのとおりにござりまする。お父上さまも落とせなかった城を落としたが慢心のもとと・・・・・その後、高坂、内藤の両人、あれこれと上様に諌言
申し上げたことゆえ、あとは申し上げませぬ。ただそのような空気が家中にあること、そかとお心にどどめおき下されまするよう」 釣閑はやはり主戦派だった。彼はこういうことで、逆に煽
るつもりに違いなかった。 | 「徳川家康 (七)
著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ | | |