信康が不機嫌に口をつぐんだのを見ると、家康はまたあやす口調になっていた。 「三郎、何が賦
に落ちぬ。訊ねてみよ。腑に落ちるように説いてやろう」 父にそう言われると信康は短兵急に答えていった。 「信康は受けずに済む戦に、他人の助力、他人の恩義を受けたくはござりませぬ。それだけ後に義理が残りまする」 「ほほう、すると織田家は他人か三郎」 「他人ではなくとも一族ではござりませぬ」 「三郎、父も同じ考えじゃ」 「えっ?
では、織田の援軍を待っているのではないと仰せられますか」 「いいや」 家康はゆっくりと首を振って、 「是非とも助力を乞わねばならぬゆえ乞うたと申しているのだ」 信康はギラギラと眼を光らしで、またしばらく父を見つめつづけた。 「三郎」 「はい」 「織田家の援軍が到着すると、甲州勢はそのまま引き揚げる。甲州勢が引き揚げれば稲は思いのままに伸びられる。この戦、領内を飢餓にせぬのが第一の勝利、勝利のためには援軍も乞わねばなるまい」 「しかし・・・・」 と、信康が身をのり出すと、 「若殿!」 と、かたわらから平岩親吉がたしなめた。執拗
すぎる・・・・というよりもここでもし小侍従の一件が洩れてはと、それを警戒して止めたのだが、若い信康はその制止をきかなかった。 「援軍を乞わねばならぬ理由は分りましたが、その援軍が未だに到着せぬのはなぜでござりましょう」 家康はちらりと近くの人々を見廻して、 「康政、おぬしはどう思うぞ。まだ援軍の来ぬわけは?」 眼を輝かしてきいている榊原康政を指した。康政はわざと、信康から視線をそらして、 「この小平太はおそらく織田の殿も戦わずに済めば済ましたいのでは・・・・と存知まするが」 「なに!」
信康はききとがめて、 「では戦う意志のない援軍、そのような援軍が役に立つと思うのかッ」 「若殿!」 と、また親吉がたしなめた。 「戦わずに済めばそれに越したことはござりますまい」 「が、戦わなくとも恩は恩、その恩を受けずに済む手段はないかときいているのだ」 一座はちょっと鼻白んだ。信康の生長と差し出口とが、これまで団結して来た旗本の空気に、違った風を吹き込みそうで気にかかった。 「殿!」 そこへ折りよく本多作左衛門が入って来たので、信康の口は封じられる形になった。 「戻ってまいりました。大河内への使者が」 「そうか、戻ったか。よし、みなは遠慮いたせ」 「この信康も・・・・?」 「そうだ、この戦のことは三郎にはよく分らぬ。作左、連れて来い」 家康は、不快げに眉をそびやかして出て行く信康に眼もくれず、もう一度頭上の緑の動きに視線を放って、何か深く考えてゆく顔になった。
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