〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/08 (金) 胆 の あ り か (十)

家康はみなが出て行って作左が一人の若者を伴って来るまで、頭上を渡る風の音を聞いていた。
(戦とはむつかしいもの・・・・)
今にして、しみじみとそれが胸にこたえる感慨だった。冷酷といえば、これ以上に冷酷な計算を要するものはなく、むざんと言えば、これ以上に無残な決断を必要とするものはなかった。
高天神の城から、次々に援軍を求める密使が来ているのに、家康の手もとからは、また別に軍監の大河内源三郎政局のもとへ間諜を送って、小笠原与八郎の動静を探らせなければならなかった。
「召し連れました。藤沢ふじさわ 直八なおはち を」
「そうか」
家康はゆっくりと視線を若者へ移して、
「どうして城へ入って行った」
「はい、味方が城外へ打って出るときを待ち、引き揚げる時に、雑兵をよそおって城へ入りました」
若者は陽に焼けた額にくっきりと鉢巻のあとを残し、燃えるような眼をして片膝ついていた。
みなりは今は小荷駄の人足・・・・といった姿であった。
「そうか。それでは、敵の廻し者も、城へ入れる道理じゃの」
「仰せのとおりにござりまする」
「大河内は何と言った。織田勢の到着まで城を持ちこた得ると言ったか」
「それが、いささか案じられますると・・・・」
「案じられるか。すると、小笠原与八郎、やはり心を動かしているのじゃな」
「はい」 と答えて若者はひらめ くようにあたりを見廻した。
「どうやら甲州勢に何か誓書を渡した様子と・・・・しかし、その内容は分りかねまする」
家康はこくりとうなずいて、
「その内容なら分っている」
「お分かり・・・・というと、その書面をお手に入れられましたので」
家康はふと苦笑して作左と眼を見合った。
「手に入れぬでも分るものじゃ。与八郎は、胸中の不満、秘密を、そのままわしのもとへ申して来ている」
「はあ・・・・」
と言ったが、若者は腑に落ちた顔ではなかった。
「与八郎ほどの武士を、このまま見殺しにするのかと言って来た。言ってくる時にはしでにその不満は敵方へも分ってゆく。わしが勝頼であっても、この不満は見落とさぬ。家康は冷酷無情な男、それに引き替え貴殿はあっぱれの勇将、われに味方する気はないかと誘うのじゃ」
後に控えていた作左が、
「与八郎も腰ぬけでおござりまするなあ」
と、ふと洩らした。
「腰ぬけではない。利を知って義に浅い。それにわが身の武勇に慢心まんしん している。して、大河内政局は何と申した。与八郎変心の場合は」
「はい、たとえいかなることがあっても、お館さまの命のあるまでは城は捨てぬ、お案じ下さるなと申されました」
「大義であった。さがって休め」
「はッ」
若者が出て行くと家康は作左をかえりみて、
「高天神の城はまもなく落ちるの」
「しかし、みながみな与八郎のような腰ぬけではござりますまい」
「いや、わしはそれを言っているのではない。いよいよ織田の援軍がやって来ると申したのだ」
こんどは作左がけげんな顔で眼をしばたいた。

徳川家康 (六) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ