家康はみなが出て行って作左が一人の若者を伴って来るまで、頭上を渡る風の音を聞いていた。 (戦とはむつかしいもの・・・・) 今にして、しみじみとそれが胸にこたえる感慨だった。冷酷といえば、これ以上に冷酷な計算を要するものはなく、むざんと言えば、これ以上に無残な決断を必要とするものはなかった。 高天神の城から、次々に援軍を求める密使が来ているのに、家康の手もとからは、また別に軍監の大河内源三郎政局のもとへ間諜を送って、小笠原与八郎の動静を探らせなければならなかった。 「召し連れました。藤沢
直八 を」 「そうか」 家康はゆっくりと視線を若者へ移して、 「どうして城へ入って行った」 「はい、味方が城外へ打って出るときを待ち、引き揚げる時に、雑兵をよそおって城へ入りました」 若者は陽に焼けた額にくっきりと鉢巻のあとを残し、燃えるような眼をして片膝ついていた。 みなりは今は小荷駄の人足・・・・といった姿であった。
「そうか。それでは、敵の廻し者も、城へ入れる道理じゃの」 「仰せのとおりにござりまする」 「大河内は何と言った。織田勢の到着まで城を持ちこた得ると言ったか」 「それが、いささか案じられますると・・・・」 「案じられるか。すると、小笠原与八郎、やはり心を動かしているのじゃな」 「はい」 と答えて若者は閃
くようにあたりを見廻した。 「どうやら甲州勢に何か誓書を渡した様子と・・・・しかし、その内容は分りかねまする」 家康はこくりとうなずいて、 「その内容なら分っている」 「お分かり・・・・というと、その書面をお手に入れられましたので」 家康はふと苦笑して作左と眼を見合った。 「手に入れぬでも分るものじゃ。与八郎は、胸中の不満、秘密を、そのままわしのもとへ申して来ている」 「はあ・・・・」 と言ったが、若者は腑に落ちた顔ではなかった。 「与八郎ほどの武士を、このまま見殺しにするのかと言って来た。言ってくる時にはしでにその不満は敵方へも分ってゆく。わしが勝頼であっても、この不満は見落とさぬ。家康は冷酷無情な男、それに引き替え貴殿はあっぱれの勇将、われに味方する気はないかと誘うのじゃ」 後に控えていた作左が、 「与八郎も腰ぬけでおござりまするなあ」 と、ふと洩らした。 「腰ぬけではない。利を知って義に浅い。それにわが身の武勇に慢心
している。して、大河内政局は何と申した。与八郎変心の場合は」 「はい、たとえいかなることがあっても、お館さまの命のあるまでは城は捨てぬ、お案じ下さるなと申されました」 「大義であった。さがって休め」 「はッ」 若者が出て行くと家康は作左をかえりみて、 「高天神の城はまもなく落ちるの」 「しかし、みながみな与八郎のような腰ぬけではござりますまい」 「いや、わしはそれを言っているのではない。いよいよ織田の援軍がやって来ると申したのだ」 こんどは作左がけげんな顔で眼をしばたいた。
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