家康の答えがあまり静なので、一瞬信康はポカンとした。 (何か大きな思案がなくて、このようなことを言う父ではない) そう信じながらも、つねずね家臣を愛せ、郎党を惜しめと教えてきた父の、こんどの態度は信康には呑み込めなかった。 高天神の城には小笠原与八郎のほかに、久世
三四郎 広宣
、渡辺 金大夫
、中山 是非之
助 、本間
八郎 三郎
、坂部 又十郎
など、遠州では一騎当千とうたわれた勇士の他に、家康の手もとから軍監として大河内
源三郎 政局
が差しつかわされている。 もしそれらの勇士を討ち死にさせ、城を敵の手に渡したのでは、後の士気に響くと思うと、信康は押し返して父にたずねずにいられまかった。 「お父上!
このままもし高天神を見殺しにしたのでは、お父上は冷たい大将、頼まれぬ大将とみなの心が放れませぬか」 家康は、はじめて信康に視線を向けて、 「戦うばかりが戦ではないぞ三郎」 と、口を開いた。 どうやら家康も、わが子に言いたいこと、教えたいことがいっぱいありながら、信康の理解の限界を考えて逡巡していたものらしい。 「戦うばかりが戦ではないとは?」 「戦いたいとき、じっと耐えて動かぬ辛抱
も戦のうち、甲州の信玄公はその戦いに強かった」 「では、やっぱり織田勢の到着を待つのでござりまするな」 「いや・・・・」 と、家康は首を振って、頭上の青葉に眼をそらした。 海上を渡って来る風がハタハタと幕をたたき、青葉の葉裏を返させて眼に入る限りのものが動いている。その中で、家康だけがじりじりするほど静かであった。 「ではなぜ、じっと辛抱なさるのでござりまする」 「信康・・・・」 「はい」 「じっと耳を澄ましてみよ。この好天気でな、田という田の稲が、シュンシュンと今、音を立てて伸びているのが分るはずじゃ」 「それはいまが伸びる最中
ゆえ・・・・」 「その稲を踏み荒らしては済むまい。今年満足な収穫を怠ると、遠州三河は大飢饉じゃ」 そばに控えていた榊原康政が、ニコリと笑ったのは、彼はすでに家康の心を読んでいるからであろう。 信康は半ばわかり、半ば解
せぬ表情で、 「ではお父上は、ここにこうして辛抱しておれば、甲州勢は高天神から西へは来ぬと仰せられるので」 「来るかも知れぬ、それゆえこうして武装して待っている」 「来れば同じこと、田畠は踏み荒らされる。それよりも出向いて行って敵を来させぬが上策ではござりませぬか」 「うるさいのう」 と、家康ははじめて眉根を寄せて、 「そのようなことは、あとで親吉に訊くがよい」 「じゃと申してこのままでは・・・・」 「信康!」 「はいッ」 「そちは織田の援軍の手を借らずに敵を追い払いたいのだろう。うつけ者め!」 叱りつけられて信康は口をつぐんだ。まさにそのとおりであった。若い信康の胸では、まだ徳姫への怒りから小侍従を斬った悔いが、忌々
しく胸に残っているのであった。 |