信長の推察は当たっていた。 ここ浜松の城内では、いつでも城門を開いて討って出られる態勢を整えながら、家康は夜が明けると本丸前の幕舎に詰め、日が落ちると屋内に引きあげて一向に高天神城へ援軍を送ろうとしなかった。 うかつに撃って出て、かえって領内深く敵を誘い込むことになっては一大事だった。それよりも信長の援軍到着によって敵の攻撃意図を砕くに限ると考えているのだったが、それはうかつに口外できなかった。 高天神に籠城している小笠原与八郎からは、次々に援軍を乞う使者が来ているからであった。 その密使のたずさえて来る書面の文字も、日に日に険しさを加えて来た。 今日やって来たのは向坂
半之助 という与八郎の腹心だったが、彼は、もはや、弾薬兵糧も尽きようとしていることを述べたあとで、 「浜松からわざか十里のところを、殿は、与八郎ほどの戦功のある者に無為に死ねと仰せられる気か、しかとうけたまわって戻れ・・・・と申されました」 と家康に告げた。 家康は黙々とうまずいて、 「すぐに援兵を送るとしよう。帰ってその旨
告げてくれ」 と、おだやかに答えた。 「恐れながら」 密使は険しく眉をつりあげ、しぼるような汗を背にうかせて、 「そのお答えならば、前二度の使者が聞いて戻ったお言葉と同じでござりまする」 と斬り返した。 「このたびは、何日、何刻までに高天神へご到着と、しかとうけたまわって戻りとう存じます」 家康はしかし、依然としておなじ表情、おなじ静けさでうなずいた。 「すぐに援兵をだすとしよう」 おなじ答えにたまりかねて、かたわらから信康が口を出した。 「お父上、この信康だけでも先に先発させていただけませぬか。このままでは小笠原与八郎はじめ、籠城の者どもに意地が立ちませぬ」 密使はその言葉に勢いを得て、 「もはやあの小城で、五月十二日からすでに一ヶ月、戦いとおして来ているのでござりまする」 家康はそういう向坂半之助は見ずに、逸
りきっているわが子の信康をたしなめた。 「こなたの口を出すところではない、控えていよ」 「と申して、このままもし城が落ちるようなことがあっては、わららの名が立ちませぬ」 「控えていよと申したぞ」 それから半之助に向き直り、 「予の言葉のままを告げよ。それで与八郎には十分分るはずじゃ、行け」 そう言われては密使も言葉が返せなかった。 彼は怨めしそうに青葉の照り返しを受けて深沈
としている家康の大きな顔を見つめていたあとで、 「しかとその旨、申し伝えまする」 と幔幕の外へ出て行った。 「お父上!」 「なんだの」 「お父上は織田の援軍を来るのを待っておられるのですか」 家康はちらりとわが子を見ただけで答えなかった。 「もし織田勢の到着以前に城が落ちたらお父上は与八郎たちに何と言われると思し召します」 「負けたと言われるまでのことよ」 家康は笑いもせずに冷ややかに答えた。
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