濃御前はいつに変わらぬつむじ曲がりの信長の返事を聞いて、わざと眼を丸くして見せたが、心の中では驚いていなかった。 どこかでホッとしながら、 「これはまた思いがけないお言葉、いま取り囲まれているのは高天神の城と聞きましたが」 「そうじゃ高天神は浜松から十里の小城、そこに小笠原
与 八郎
が立てこもって、甲州勢の猛攻に耐えている」 「この暑さにそこまで兵をおすすめになったのでは、軍兵の疲れが思いやられまする」 「お濃!」 「はい」 「おぬし、おれの心を読んだな」 「いいえ、お館は人びとの意表をつくが日本一の弓取り、濃などに読めるはずは・・・・」 「ないと言わせぬ!」 信長はいきなり濃御前の手を払いのけると、背を丸めて、肩をおとして、顔すれすれに濃御前に近づけた。 眼はギラギラといたずらっぽく光り、酒気を帯びた唇が、少年のように朱
かった。 「さすがにおのれは斉藤
道三 の娘、憎い女だ」 「まあ怖い!」 「おのれをおれが女房にしておいてよかった。もしおれの女房でなければ、おのれは亭主の尻をたたいてこの信長と天下を争わせたかも知れぬ」 そう言ったあとでカラカラと声を立てて笑った。 「おのれ、この信長の心ばかりでなく、家康の心も読んでいるな。さ、まっすぐに白状いたせ」 こんどは濃御前が、手の甲を口に当てて笑い崩れた。 「読んだと言ったら何となされまする」 「そうよなあ、望みどおり欲しいものをくれてやるわ」 「家康さまは思慮ぶかいお方、すでに岡崎から信康このまで浜松へ出陣させておきながら、わずか十里の高天神城へなぜ父子で出向かぬのか、これが、まず一つの謎
でござりまする」 「なるほど、なかなかよく読んだ。なぜ父子で高天神城へ行かぬのだ」 「たぶん・・・・」 と、言いかけて首をかしげて、 「小笠原与八郎とかいう大将の心と力・・・・それを試す気ではないかと存じまするが」 信長はポンと膝をたたいて、それから濃御前の、艶冶
な頬の肉を乱暴につまみあげた。 「憎い奴め、さ、あとを言え!」 「申しまする。申しまするゆえお放しなされて。おお痛い・・・・たぶんその大将は、譜代の家の子ではございますまい。以前は今川氏の家臣、甲州に好餌で釣られるおそれ、ありやなしやと」 「怖ろしい女だ。うぬは・・・・」 「それゆえここでは、浜松の城は出ず、まず、援軍を西に求めるのが得策とご思案なされました。なにしろ西の大将も、油断ならぬ大将ゆえ、すぐに援軍を差し向けてくれるかどうか・・・・?
これもこころで試そうため・・・・」 「黙れッ!」 と、信長は一喝して、腹をかかえて笑い出した。 信長の考えと、濃御前の推察とはほとんど一致していたのである。が、信長はまたしてもつむじ曲がりにぐっとあとの言葉をそらした。 「やはり女だ。あとがわるい。何で家康がおれを試そうなどとするものか。言葉をつつしめ。うつけ者」 |