濃御前はいそいそと信長の足をさすりだした。 (相変わらずの殿・・・・)
と、思う。が、信長が、こうして気ままに体にふれさせるのは女たちでは正室だけだった。 しばらくして信長はまた思い出したように呼びかけた。 「信康は、姫に腹を立てたのだが、姫にはあたられずに小侍従を斬ったといったな」 「はい、手紙にはそう認めてござりました」 信長は何を考えているのか、またしばらく黙って室内にゆらぐ濃御前の影を見つめていた。 開けはなった縁から涼しい微風が流れ込んで、静に御簾
がゆれている。 「濃 ──」 「はい、何か妙案がうかびましたか」 「何を言うか小癪な。策など考えていたのではないわい」 「それはそれは出すぎたことを」 「武田家の滅亡も遠くはないの」 「それを占っていたのでございますか」 「そうだ、狂気の沙汰だな勝頼は、この信長よりずっとはげしい」 「兵の動かし方・・・・が、でございますか」 「そうだ。この信長はやむない戦だけに兵を動かすが、勝頼は、自分の強さを認めさせようとして戦いまくる・・・・戦うことが好きなのだ」 「そうでございましょうか」 「そうよ、去年の十月から十一月は長篠、遠江と動きまわって、二月には東美濃に入って来た。そして三月には遠江へ出て引き返し、五月また家康に仕掛けて来る。これでは軍兵がたまるまい。一度の戦に千人ずつ失うたとしても五千人は失う道理、半年に五千人ずつ失うたら、三万失うに幾年かかる」 「ホホホ、またお館のおたわむれ、三年でございましょうが」 「バカな、そなたの算盤
は子供の算盤、三万の兵が一万に減ずれば、宿将老臣、みな離れていって滅亡するわ。二年じゃの、あと」 「ホホホ」 と濃御前は子供をあやすように笑って、 「では勝頼さまも私のようにそろばんは下手と見えますなあ」 「そのことじゃ。宿将老臣どもに、父に劣らぬ勇猛さを見せようとして、逆に見放されてゆく。このように戦好きでは兵が疲れてたまるまい」 それからまたしばらく黙っていて、 「こんどは腰!」
と言ってから、 「お濃、そなたならば何とするぞ」 「何が・・・・何を、でございます?」 「浜松へ援軍を送るかどうかを訊いているのだ」 濃御前は、慎重に首をかしげて、 「私が大将ならば・・・・」
と指尖の力をぬかずに腰をさすってゆきながら、 「援軍を出さずとも、浜松城が陥るとは思えませぬゆえ差し控えまする」 「なぜだ? わけは?」 「兵の疲れを休めさせるは、いずれの大将も心掛けねばならぬこと」 「なるほど、それでおれの心は決まった!」 「お役に立ちましたかご思案の」 「立ったぞ濃、おれはすぐに援軍の出発の用意にかかる。決めた!」 そういうと、信長はいたずららしく濃御前の顔を見やってニヤリと笑った。 |