〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/04 (月) 胆 の あ り か (三)

濃御前はいそいそと信長の足をさすりだした。
(相変わらずの殿・・・・) と、思う。が、信長が、こうして気ままに体にふれさせるのは女たちでは正室だけだった。
しばらくして信長はまた思い出したように呼びかけた。
「信康は、姫に腹を立てたのだが、姫にはあたられずに小侍従を斬ったといったな」
「はい、手紙にはそう認めてござりました」
信長は何を考えているのか、またしばらく黙って室内にゆらぐ濃御前の影を見つめていた。
開けはなった縁から涼しい微風が流れ込んで、静に御簾みす がゆれている。
「濃 ──」
「はい、何か妙案がうかびましたか」
「何を言うか小癪な。策など考えていたのではないわい」
「それはそれは出すぎたことを」
「武田家の滅亡も遠くはないの」
「それを占っていたのでございますか」
「そうだ、狂気の沙汰だな勝頼は、この信長よりずっとはげしい」
「兵の動かし方・・・・が、でございますか」
「そうだ。この信長はやむない戦だけに兵を動かすが、勝頼は、自分の強さを認めさせようとして戦いまくる・・・・戦うことが好きなのだ」
「そうでございましょうか」
「そうよ、去年の十月から十一月は長篠、遠江と動きまわって、二月には東美濃に入って来た。そして三月には遠江へ出て引き返し、五月また家康に仕掛けて来る。これでは軍兵がたまるまい。一度の戦に千人ずつ失うたとしても五千人は失う道理、半年に五千人ずつ失うたら、三万失うに幾年かかる」
「ホホホ、またお館のおたわむれ、三年でございましょうが」
「バカな、そなたの算盤そろばん は子供の算盤、三万の兵が一万に減ずれば、宿将老臣、みな離れていって滅亡するわ。二年じゃの、あと」
「ホホホ」
と濃御前は子供をあやすように笑って、
「では勝頼さまも私のようにそろばんは下手と見えますなあ」
「そのことじゃ。宿将老臣どもに、父に劣らぬ勇猛さを見せようとして、逆に見放されてゆく。このように戦好きでは兵が疲れてたまるまい」
それからまたしばらく黙っていて、
「こんどは腰!」 と言ってから、
「お濃、そなたならば何とするぞ」
「何が・・・・何を、でございます?」
「浜松へ援軍を送るかどうかを訊いているのだ」
濃御前は、慎重に首をかしげて、
「私が大将ならば・・・・」 と指尖の力をぬかずに腰をさすってゆきながら、
「援軍を出さずとも、浜松城が陥るとは思えませぬゆえ差し控えまする」
「なぜだ? わけは?」
「兵の疲れを休めさせるは、いずれの大将も心掛けねばならぬこと」
「なるほど、それでおれの心は決まった!」
「お役に立ちましたかご思案の」
「立ったぞ濃、おれはすぐに援軍の出発の用意にかかる。決めた!」
そういうと、信長はいたずららしく濃御前の顔を見やってニヤリと笑った。

徳川家康 (六) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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