〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/07/01 (金) 落 花 の 匂 い (一)

浅井備前守長政は、お市の方と姫たちの松明たいまつ が京極曲輪のかがり火の中に溶けてゆくのを見すまして手勢をまとめた。
本丸を敵の手に渡し、彼もまた山をくだって虎王前山の信長の本陣におもむく約束だったからであった。
「ご用意よくば・・・・」
相変わらず、感情を表に見せぬ不破河内が、鶏卵を想わす円満さで長政をうながすと、長政は、かすかに唇をゆがめて河内に応えた。
「では名残惜しいが山を降ろう」
「ご心中、お察し申す」
長政はまた唇をゆがめて笑いながらうなずいた。
すでに長政に従う者は百余人。あとはいったいどうなったのか?
斬り死にしたものもあろうが、降った者、逃げた者の数はそれより多いに違いなかった。
河内の計らいで、長政も長政に従うものも武器はそのまま持っていた。
織田方の注進が一行より先に、両者衝突のないよう、それぞれの指揮者のもとへ飛ばされた。
夜はすでに三更さんこう (午後十一時〜午前一時) に近かった。行列のうしろにはかつぎをかむった女たちが、十六、七人いそいそと続いている。
門を出て、一段下の矢倉の前まで来ると、長政は思わずうしろを振り返って、祖父三代、済みなれた小谷城の本丸を仰いだ。
まだところどころに灯は動いていたが、夜空へそびえた真っ黒な屋根は、何かを長政に語りたげに見えた。
長政はふたたび胸をそらして粛々しゅくしゅく と下りにかかった。
すぐ後ろからついて来る冷静そのものの不破河内に、何かはげしい言葉を浴びせてやりたかったが、それも今はむな しく想われた。
(父が信長に降参していったなどと、たわけたことを口にして・・・・)
長政は、河内の口上などを信じているのではなかった。どのようなことがあろうと信長の前に引き据えられて生命いのち いをするような父ではない ── それを骨身にきざんで知っていながら、信じたふりをしたのは、
(父はすでに自害した!)
河内の言葉の裏から、生きてはいないと、ナッキリ悟ったからであった。
(父は死んだ・・・・)
そうなると、ここで頑是がんぜ ない姫たちや、戦う意志のない味方の軍兵を道づれにすることは長政の男の意地が許さなかった。
それに何よりも長政をおどろかせたのは、茶々姫の言葉だったと言える。
「・・・・まだ討ち死にしなかったの?」
そう言われた時に、長政は、眼の前が真っ暗になっていった。これほど痛烈な神の声がまたとあろうか。
武将と武将の意地を言い立て、何の考えもない者まで犠牲ぎせい にしてよいはずはなかった。
(父はすでに死んでいる・・・・)
長政は、それを悟った瞬間に、父の意地から自分の意地へ一歩すすめた。
妻も助けよう。姫たちも助けよう。一人でも多く家臣小者を助けよう・・・・
しかし、そうした長政の肚を誰も知る者はない。当の不破河内は、うまうまと長政をだましおおせたつもりであろう。のっぺりとした無感動な表情でいつか長政と肩を並べている。
(こやつをどこで叩っ斬ろうか)
長政は松明の火が河内の横顔をあおり出すたびにそれを思った。

徳川家康 (六) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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