「お方はこれへ。ほかの者は座をはずせ」 長政は自分とおなじ位置に信長の軍使、不破河内守を講じ入れると沈んだ声でみんなに言った。 茶々姫も高姫も連れ去られた。 お市の方は燭台越に良人を見やって、あやしく胸のさわぐのを覚えた。良人はむっつりと口を結んで、ときどき視線を虚空に据えてゆくのである。沈着な長政にはめずらしいことであった。 「奥方さま」 と、突然不破河内が、直接お市の方に話しかけた。 お市の方は良人をはばかって、 「は・・・はい」 と口ごもった。 「備前守さま、いよいよわれらの乞いを容れられ、この城を捨てられて虎御前山へおもむくことになりました」 「・・・・・」 「備前さまのおん前で言うこと、嘘いつわりはございません。奥方さまも姫君たちとご一緒にお立ち退きのご用意願わしゅう存知まする」 お市の方はわが耳を疑った。あわてて視線を良人から河内、河内から良人へと泳がせながら、 「それは・・・・それは・・・・まことでござりましょうか」 「用意をせよ」
と、こんどは長政が吐息まじりに、 「事情は変わった。山王丸のお父上は、もはや虎御前山の、信長どのの本陣におもむかれたそうな・・・・」 「まあ!」 お市の方ははじめて良人の沈鬱
の原因を知った。 (それにしてもあの頑
なな、舅 の久政が・・・・) 信じられるようでもあり、信じられないようでもあって、うかつに感情は見せられなかった。 その混乱を察して長政は、またつぶやくように、 「お父上も、こなたや姫たちが憐れになってお心を変えさせられたのに違いない。この長政もすぐに行くゆえ、こなたたちは先に参って、無事な顔を父上に見せるがよい」 お市の方はちらりと茶々姫のむずかった顔を思い出した。全身で両親の決めた死に反抗する幼い者の不安な顔を・・・・と、口ではぜんぜんそれと反対の言葉が、せきを切ったように流れ出してくるのであった。 「いやでございます!
せっかく心を決めて、この小谷山の土になろうと・・・・いやでございます! 今さら生き恥をさらしに・・・・この市は信長の妹ではございません。浅井備前が妻でござりまする」 長政はそういう妻を凝然
と見守り、不破河内は、しきりにうなずいていた。 「お方・・・・」 「いやでござりまする。私や姫たちはこのままここで・・・・」 「お方!」
と、急に長政の声はとがって、 「こなた、それでは、お父上が信長どのの手にかかってもよいというのか」 「えっ!? では私たちが山を下らねば・・・・」 「お父上の生命にかかわる。のう、聞き分けて、姫たちを連れてひと足先に山を下ってくれ、この備前もすぐに参る」 長政はそう言うと、 「藤掛三河、木村小四郎、両人でお方と姫たちを虎御前山に送るよう」 きびしい声で命じていった。 |